それでも学生演劇を続けながらラジオ局の放送劇団に入って台本を書いたりもしていました。だから卒業してすぐ上京したいと言っても、母は止めませんでした。ろくに勉強もせずに芝居に入れあげている息子を見てあきらめたんでしょう。
――文学座の養成所に入所、演劇の道へと進んだ。そこには樹木希林さん、橋爪功さん、岸田森さん、小川真由美さん、草野大悟さん、寺田農さんらそうそうたるメンバーがいた。
初舞台はシェークスピアの「ジュリアス・シーザー」。もちろんセリフもないような端役でしたが、ここで生涯を通して先輩と慕った小池朝雄さんと共演したんです。
役者人生の岐路のひとつは、劇団が分裂したことですね。大先輩だった小池朝雄さんと親しくなったのは劇団「雲」(現代演劇協会)に移ってから。「雲」は福田恆存先生(文芸評論家・翻訳者)と芥川比呂志さんを筆頭に、仲谷昇さん、岸田今日子さんらが文学座から出て立ち上げた劇団。小池さんはその中でもリーダー的存在でした。
十数年たって、今度は「雲」が「円」と「昴」に分裂した。僕は小池さんについて「昴」に入ったんです。キラ星のごとくだった俳優陣はみんな「円」のほうへ行っちゃってね。僕と小池さんは「昴」に残りました。これが大きな転換期だったとは思います。何しろ役者が少なくなったから、僕はずいぶん主役をやらせてもらった(笑)。
このことは確実に、後々の役者人生に影響したと思います。それと「昴」では当時、劇場を持っていたんですよ。東京都文京区にあった「三百人劇場」っていうんですけど、そのおかげで劇団の価値が高まったし、なによりいつでも自分たちが挑める「場」があったという意味で、素晴らしい財産でした。
人生に、もう一つの可能性があるとしたら何だったんだろう。僕がもう一度、人生を生きなおせるなら、医者、それも外科医に憧れるなあ。
子どものころに受けた予防接種のせいで人生の半分以上、C型肝炎に苦しんだんです。78歳のときには前立腺導管がんや心臓、胆のうの病気もしました。そのたびに外科医のお世話になったんですが、どの先生も素晴らしかったんです。人の命を預かる、大変な仕事。技術と知識が必要で、何より直接的に人の役に立つ。