大河ドラマ「春日局」では烈女のイメージの強いおふくを母性愛にあふれた女性として演じ、ウイスキーのCMでは男性の帰りをひたすら待った。可愛らしい女がピタリとはまった大原麗子だったが、生き急いだ末に孤独死を迎えた。没後10年。実弟の大原政光さんが、激しい生き様を回想する。
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一人住まいをしていた姉と連絡が取れなくなったんです。念のため警察に連絡したところ、「もし何かあったらいけないので」と要請を受け、刑事さんと一緒に姉の家を訪ねました。
――2009年8月6日、大原麗子が自宅で亡くなっているのが発見された。享年62。晩年の麗子はギラン・バレー症候群などのため芸能活動を控え、自宅で過ごすことが多かった。稀代のスターが迎えた孤独死について、第一発見者でもある実弟の大原政光さんが回想する。
私は大して心配していませんでした。というのも姉は海外に行っていると思っていたので。それなのに玄関のドアに私の合鍵が入らない。このドアは内側からも、鍵を差して施錠したり開けたりします。中から鍵が差さっている。姉は中にいるんだと、勝手口のほうに回りました。
勝手口は施錠されていましたが、隣のガラス戸が開いたんです。入ろうとしたら刑事さんが「待ってください」と言う。まず先に入ったうえで「ああよかったですね。無事ですよ」と。この方は元鑑識課だったそうで、「死臭がしません」と言いました。
そこで2人で2階に上ったんです。寝室のドアを開けると、姉が仰向けで倒れていました。死後3日経っていたそうです。左目の周りに青い痣(あざ)ができていたので、解剖してもらいました。殴られたわけではなく、脳内出血して、一部が流れたということでした。
姉と最後に会ったのは、約1カ月前の7月7日。うちに来たんです。姉は車を降りて玄関まで小走りしました。とても元気よく。
姉と私は交代で母親の面倒を見ていました。母を迎えに来たのかと思ったら、「カンボジアに行くから、今日は連れていけない」と言いました。もし母が一緒にいれば、姉が倒れたときにすぐに気付いて病院に連絡できたかもしれません。
――大原麗子は1946年11月13日、東京・小石川で和菓子屋を営む大原政武・俊子夫妻の長女として生まれた。店は繁盛し暮らしは裕福だった。
私は姉とは3歳違い。姉は母親っ子で、私が母のおっぱいを飲むと、自分もまたおっぱいを吸うようになったそうです。母はやめさせようと乳首に唐辛子を塗ったんですが、それでも我慢して吸い続けたとか。