私の面倒もよく見てくれました。喧嘩も強くてね。何かあったら、すぐ助けに来てくれました。
幸せな4人家族のようだが、実は大原家は大きな問題を抱えていた。政武さんは日常的に俊子さんと麗子を殴ったうえ、住み込みで働く従業員と関係を持ったのだ。
母は家を出ました。一人で出ていくはずが、姉がどうしても一緒に行くとせがんだようで、多磨霊園のそばの4畳半一間に二人で住み始めました。姉が8歳、私が5歳のときのことです。
姉は母を独り占めできるから、嬉しかったようです。ただし一緒にいられる時間はとても短かったはずです。父が養育費を出さなかったため、母は働きづめ。昼は都庁の下請けをしている会社で事務仕事、夜は皿洗いをしていました。
姉はときどき父を訪ねてきました。たぶんお金の相談だったのでしょう。
生活が苦しいなか、母は姉をバレエ教室に通わせました。習いたがっていたので無理して入れたんですね。
小学6年の学芸会で、姉は「パンドラの匣(はこ)」という劇で主役を演じました。男の子の役で、私の半ズボンをはいて出演しました。劇が終わるとものすごい拍手だったそうで、姉は感動し、それを機に女優になりたいと思ったようです。
――麗子が中学に入ったのに合わせ、夫妻は正式に離婚。その3年後、父に顔を見せに行った麗子は、屈辱的な対応を受けた。
姉は、母親を幸せにしたいという気持ちが強くなっていきました。芸能界に入って成功し、楽をさせてあげたい、と。オーディションを受けたり、野獣会(東京・六本木に集まった若者たちの会。多くが後に芸能界入りした)に入るなどして、チャンスをうかがっていました。
高校1年のときに何かの役を得て、初めてドーランを塗ってもらいました。よほど嬉しかったらしく、その顔を家族に見てもらいたいと思ったんです。父のところにも見せに来ました。
ところが父は、ドーランを塗った顔を見た途端、殴りつけたんです。父の価値観では、芸能界なんてまっとうな仕事ではない。堕(お)ちるに堕ちたといった気持ちで手が出たようです。
かなり強く殴られたので、鼻の骨の右側が少し盛り上がってしまいました。姉はこれが嫌で、そこが目立たないよう、写真の撮られ方を気にしていました。
母との関係はより強くなっていったと思います。初めて海外でCM撮影をしたときには、母をロケ地のハワイに連れていきました。母にとって、生まれて初めての海外旅行。カメラを買い、姉を撮ったようです。