<机にしがみついた学者ではなく、常に世界に目を開き、自身の学問の新しい開発に余念がなかった。(中略)京都の貴重な宝が失われたのが惜しい>
1月12日に93歳で亡くなった、哲学者で国際日本文化研究センター(日文研)初代所長の梅原猛さん。作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは訃報に接し、冒頭の追悼コメントを寄せた。古代史への独自の仮説の展開や、「九条の会」呼びかけ人、スーパー歌舞伎の制作など、幅広い分野で多彩な才能を発揮し続けた。
日文研の3代目所長で40年以上の親交があった宗教学者の山折哲雄さんは、
「戦後の哲学・思想と称するものは、一皮むけばほとんどが『西洋かぶれ』でした。梅原さんはそれに真っ向から挑戦する立場を築いた人だった。多くの人が共感したのはそのためです」
深く思索にふけるあまり、幼い子供をデパートや銭湯に置き忘れたことも。
「いつも関心ある問題に集中し、時には何かに憑かれたかのように情熱的に語る人でした」(山折さん)
60歳のときに大腸がんを患って以来、口述筆記に切り替えた。口述筆記や資料の収集などを30年以上担当した出版・編集企画制作集団「エディシオン・アルシーヴ」主宰の西川照子さんは、「霊や物の怪が降りてきて先生に言わせているかのように」口述する様子が印象的だったと語る。
「女性が降りてきたときには、口調も女性口調に変わりますからね(笑)。『先生、それヘンだよ』と思わず笑っちゃったこともあります。そんな姿が本当の梅原猛なのだと思います」
西川さんは、「奥さまがいなければ、先生は成り立ちませんでした」と言う。
本誌1999年6月18日号に夫婦でインタビューに答え、妻のふささんは、「自分でネクタイを結んでも歪んでいるし、靴下もきちんと上まで上げないから、私が結んだりはかせたりしています」と語っている。
最期は京都市内の自宅で、妻や息子、孫ら家族に看取られながらの大往生だったという。
「先生が生きる目標は、96歳だったんです」
と、西川さんは少し残念そうに言った。
「先生を最後まで『梅原君』と呼んでくれるような存在だった古代中国文学者の白川静先生が亡くなったのが96歳で、白川先生と同じ年まで。その年齢に到達したら次は100歳、そして、最終的には120歳を目標にされていました」
多くの人がその死を惜しむ「京都の宝」。後日、お別れの会が開かれる予定だ。
(本誌・太田サトル)
※週刊朝日 2019年2月1日号