──火事の後はどんな生活を?

 生活は大きく変わりましたよ。火事の後デパートの展覧会にたまたま出した夫の作品が認められてデパートの催事に呼ばれるようになったのね。竹籠に和紙を貼って夫が絵付けをした民芸品みたいなものです。売るのが苦手な夫に代わって私が催事で売るようになると思いのほか売れて、他のデパートからも声がかかり全国の有名デパートの催事を1週間単位で回るようになりました。作品の評判は良かったけど家で過ごす時間はなくて、40代後半の私には体力的にも精神的にもきつかったですね。ある時搬出に時間がかかって次のデパートに向かう最終電車に乗り遅れちゃったことがありました。泊まるホテルも見つからなくて途方に暮れて座り込んでいたら通りかかった若いお兄さんが「どうしたの? 大丈夫?」って優しい声で心配してくれたんです。その時は我慢していたものが溢れ出て泣いてしまいました。仕事はそれなりにうまくいったけど心は豊かではなかったんですね。

 催事の仕事は10年くらい続けましたが、私の母の体が弱ってきて、認知症などもあり、一人にはしておけなくなって、やめました。

──介護はどのくらい続きました?

 約2年です。特に大変だったのは亡くなる前の1年ほど。母は粗相をすると隠そうとするんです。ベッドの下から汚物まみれのオムツが出てきたり、尿取りパッドを便器に落として詰まらせトイレを水浸しにしたり、便まみれになったことも何度か。

 母はふだん世話をしている私にはありがとうの一言もないのに、ヘルパーさんとかにはすごく感謝したりして、今なら母を理解できるけど、当時は癪にさわりましたよ(笑)。投げ出したくなることもありました。でも今はとっても母に会いたいなと思います。街で母に似た人を見ると立ち止まったりしてね。母が亡くなった時、私は58歳を過ぎていました。

──そこから、絵を描き始める?

 以前から夫の仕事を手伝いながら、スケッチブックなんかにいたずら描きはしていたのね。それを見た夫が「面白い絵を描く」って言ったんです。ある日フリーマーケットでの絵を描いたトートバッグが売っていて「これならば私のほうがうまい」と思った(笑)。それで私もバッグに絵を描いてみたら夫と取引がある商社の目に留まり、トートバッグやブックカバーの注文がきたの。自分の描いた作品が売れると嬉しくって頑張ったわ。でも印刷ではなく手描きで、バッグもミシンをかけて仕上げるから結構大変でね、手間も時間もかかるのに私の取り分は少しでしょ。なんか絵を描くことが楽しくなくなっていってね。

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