離れ離れになった男の子が実は、未来の夫だった! そんな物語の主人公は幸せと決まっているはずなのに、待っていたのは自宅全焼に過酷な労働、腎臓がんの告知。それでも自分の人生を生きることが大切という言葉に、勇気が湧いてくる。第52回近代美術協会展「クサカベ賞」、第39回新日本美術協会展「特選」など多数の受賞歴を持つ画家・山口香代子さんの波乱の人生を、キャリアカウンセラーの小島貴子さんが聞いた。
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私の人生は、夫の存在なくしては語れません。夫とは不思議な縁があるんです。私は5歳の時に両親が離婚し、母方の実家に預けられました。そこは味噌問屋で蔵がたくさんあって暗くて大きな家でした。心細かったけど、その家の従兄弟と同級生だった男の子が毎日遊びに来ていて、私を駄菓子屋とか公園とかに連れていって遊んでくれたんです。その子のおかげで私の寂しさはだいぶ紛れました。それから1年ほどたった頃、両親は復縁し、私を迎えに来ました。その男の子とはそれきりだったけど、ずっと気になっていたんです。夫と結婚した後、そのことを話したら「それは俺だ」って。もう驚きましたよ。
──運命だったんですね。
そうですね。私が18歳の頃に家の近所にオープンした喫茶店の息子が、夫だったんです。そこで子供の頃のことは何も知らずに再会しました。結婚を意識し、私の両親に紹介したら猛反対。若かったし夫に職がなかったことが理由です。だから駆け落ちしちゃった! パチンコ屋に住み込みで働いていたら親も根負けして、最後には私の父親の会社に就職するという条件で結婚を許してくれました。でも夫は2年ぐらいで実家の仕事は辞めてしまいました。芸術家肌でサラリーマンには向かない人。その頃は景気の良い時代で夫が始めたデザイン業や武者絵の仕事がどんどんあって、それが本業になりました。私も色塗りなんかを手伝い20年くらいは順調でしたが、コンピューターが普及してくると手描きにこだわる夫の仕事は激減しました。
悪いことは続くもので、そんな時に火事で家が全焼してしまったのです。家の者は全員宇都宮のお祭りに出かけていて無事でしたが、何もかも焼けてしまいました。でも、火事から学んだこともありました。年賀状のやり取りしかしていなかった友達が、私が火事に遭ったことを知ると、すぐに歯ブラシとかタオルとか必要なものを大きな袋に入れて駆けつけてくれたんです。本当に嬉しくって、以来誰かに何かあった場合は私も駆けつけよう、人の気持ちに寄り添いたいと思うようになりました。