SNSで「売文で糊口をしのぐ大センセイ」と呼ばれるノンフィクション作家・山田清機さんの『週刊朝日』連載、『大センセイの大魂嘆(だいこんたん)!』。今回のテーマは「回転ずし」。
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何が嫌いといって、いちいち流儀だの所作だのと、もったいぶった御託を並べる人が嫌いである。
思うに、人様の語る流儀なるものをありがたがる人は、ラーメン二郎をありがたがる人と同じで、自ら進んで型にはめてほしい人種なのではないだろうか。
大センセイ、一度だけラーメン二郎に入ったことがあるが、野菜の量を指定しようと思ったら、横柄な態度の店主に「ちょっと待って」と制止されて、それ切り一回も行っていない。行く気にもならない。
二郎好きの知人は、
「あれは、一種のプレイなんです。お約束なんですよ」
などと言うのだが、あれもダメこれもダメと言われて緊張しながらラーメンを啜って、味なんかわかるものかと言いたい。
そういう意味で、話は少々飛躍するが、大センセイ、回転ずしは一皿100円であるべきだと思うのだ。いや、正確に言えば、一皿120円でもいいから、全皿同じ値段であるべきだと思っているのである。
なぜなら、回転ずしは全皿同じ値段であればこそ、あれこれ心配せずに安心してお皿を取れるのであり、それこそが回転ずしの本分だと思うからだ。
考えてもみてほしい、何故回転ずしが誕生したのかを。ベルトコンベア式のテーブルが開発されたからといった、技術的なことが言いたいのではない。そもそも、回っていない寿司屋の料金があまりにも不透明過ぎるからではなかったか。
そりゃ、お金持ちはいいでしょうよ。でも、大センセイみたいな一般庶民は、回っていない寿司屋のカウンターなんかに座ってしまったが最後、無事にお店を出られるまで、ずーっとお財布の中身を気にし続けなければならないんである。
その点、全皿同じ値段の回転ずしなら、一皿の金額を枚数倍すれば現在の料金が瞬時にわかるわけだから、まったく不安がないのだ。