新劇の存在はそこで知りました。演劇雑誌が何冊かあってね。毎年、2、3月に俳優座養成所が募集をするってことなんかも知りました。あるとき、雑誌に文学座が附属演劇研究所を新しく始めるって書いてあった。それが高校卒業のころで。ちょうどいいタイミングだったんだな。
文学座、俳優座、民藝が当時の3大劇団だったわけですよ。俳優座のほうが養成所は古かったし有名だった。だけど文学座のほうが先に試験があって、合格の発表も俳優座より先にあった。民藝はそもそも募集がなかったんです。
結局、文学座の研究所に受かったら、もう試験受けるのは嫌だと思ってね、俳優座は受けなかった。それが人生を決めたといえば、決めたことになるかなあ……。今でも俳優座養成所の願書、持ってますよ。うちにありますよ、たぶんね。
母親に「役者になりたい」と言ったときの反応は、「まあ、やりなさい、がんばりなさい」と。母親は、素人だけど絵を描いていました。母親自身、何かを表現することが好きだったんだよね。だから賛成してくれました。
母親は、役者の仕事を喜んでくれてたかどうかはわからないけど、小難しいことは言わなかった。だいたい、よかったよ、としか言わなかった。母が亡くなったのは……20年ぐらい前。みとったのは僕じゃなくて女房だった。仕事でね、死に目に会えなかったの。入院先で亡くなって。母親は、僕の最初の、一番のファンでした。
――生来のまじめな性格と類まれなる才能で、めきめきと頭角を現し、1966年には文学座の座員となる。当時の文学座は、杉村春子というカリスマ俳優を中心に回っていた。その杉村が自分の相手役として指名したのが江守。江守は数々の出演舞台を成功させ、その実力を証明していった。おのずと活躍の場は舞台以外にも広がっていった。
31歳のとき、NHKの大河ドラマ「元禄太平記」に出演し、主人公の大石内蔵助役をやりました。あのときは襟足の髪を伸ばしっぱなしにしたんです。刈り上げにしたら、まるごとかつらをかぶせることになる。でもそれじゃ不自然でしょう。襟足のところがリアルになるように、髪を伸ばしてかつらになじませれば、地毛で結ってるように見えるだろうと思いました。おかげで他の仕事はできませんでしたけどね(笑)。