人を楽しませたいという思いと、何かを表現したいという思い、どちらが俳優としての原動力になるのかといえば、常にそれは両輪だと思う。自分が理解して演じた役が、芝居をしているというのではなく、そのものが存在しているようにまでなったら、観客が喜ぶわけでしょ。感動するわけでしょ。

 誰かになりたいとか、誰かのまねをしようとかって考えたことは一度もないんですよ。文学座の中でいえば、北村和夫とか加藤武とか、ほかの劇団の人だったら仲代達矢とか、平幹二朗になりたいと考えたことはない。それよりは「自分でありたい」ということですよ。自分と作品、自分と役に向き合い続けてきて、それだけで精いっぱいでした。

――NHKのバラエティー「連想ゲーム」から、「鬼平犯科帳」、「美味しんぼ」シリーズといった民放のドラマ、CMナレーション、アニメのアテレコ、映画などありとあらゆる分野で才能を発揮。それでも江守の人生を貫いてきたといえるのは演劇の世界だった。

 舞台俳優っていうのはいろんな勉強は必要かな、と思いますね。自分ではない何かになろうとするんだから。人種、性別、時代さえ超えて、自分とはかけ離れた誰かになる。映画やテレビだと、アップになったりするからね。たいてい、それにふさわしい年齢の俳優を使いますけど、演劇はそうじゃない。

 例えば、シェークスピア劇。僕もたくさんやってきたけれど、戦前どころか400年前の作品ですよ。当時の生活がどんなものだったかなんて、誰にもわかりゃしない。原文を読んだり、先輩の舞台を見たり、もちろんいろんな努力はしますよ。だけど、今生きている誰も見たことがないんだもの。ましてシェークスピアの原文は難しいからね。古い英語ですから。今の辞書には出てこない言葉があります。

 シェークスピアはエリザベス朝の英国人でありながら、古代ローマや古代ギリシャを舞台にしたり、戯曲家自身が知らない世界を設定している。それが時代を経て、現代の日本に暮らすわれわれが日本語で演じる。そういう二重三重の構造になっている。なんだか、滑稽だよね。作った本人すら知らないだろうことをわれわれがやっているんだから。

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