西武ライオンズが10年ぶり22度目の優勝を果たした。元エースで監督経験もある東尾修氏は、今季このチームから去り、球界を引退する選手について思い出を語る。
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西武の松井稼頭央が現役引退を表明した。私にとっては本当に思い出深い選手で、今でも家族ぐるみのつきあいをさせてもらっているから、心に感じるものはあった。
9月27日の引退会見で、稼頭央がお世話になった人の一人に私の名前を出してくれて、本当に感謝している。
その10日ほど前だったかな。彼と食事をした際に、現役引退の覚悟を感じた。その時に話をしたのは、引き際としてはいいタイミングになるのではないか、ということ。実際に決めるのは本人、そして家族しかいない。私はそれ以上のことは言わなかった。
今でも、彼の若い頃を鮮明に思い出すことができる。私が西武の監督1年目(1995年)に、身体能力の高さにほれ込んで1軍で起用した。元々は右投げ右打ち。スイッチヒッターを目指すことになるが、左打席を覚えさせる上で、私が絶対に身につけさせなきゃいけないと考えたのは、利き腕である右腕を死球から守ることだった。当時はひじの防具なんてものはない。死球による故障で離脱してもらっては困るので、打撃投手を務め、本気で体めがけて投げた。アメフトのような特注防具を着てやってね。最初はテニスボールを使っていたが、途中から野球の硬球に変えた。今なら、そんな指導をしたら、すぐにクビだろうな。でも彼はまったくめげなかった。少しでも死球のリスクを減らすために、試合で半袖のアンダーシャツを着ることを禁止した時期もあった。
スイッチヒッター習得には、人の2倍、3倍振り込む必要がある。それだけではない。PL学園時代は投手で、プロに入ってから内野手転向。守備面で覚えることもたくさんあった。昼間はバットを振り、夜は守備練習。よく耐えた。野球に対する真っすぐな思いに頭が下がる。当時、ロッテのバレンタイン監督から“交換要員は希望の選手でいいから”とトレードの申し出があったと記憶している。レギュラーをつかんで2~3年で、球界を代表する打者になった。とにかくリストが強く、球威がある投手にもまったく力負けしなかった。