夏の甲子園大会は5日目となる8月9日、注目校が登場する。第2試合は春の選抜8強入りの花巻東(岩手)が下関国際(山口)と対戦。花巻東といえば、投打二刀流を極めようとしているメジャーリーグ・エンゼルスの大谷翔平の母校でもある。高校時代に唯一、夏の甲子園大会に出場した2011年、2年生だった大谷は、150キロのスピードボールを披露し、球場を大いに沸かせた。白球を見つめる純粋な目をした17歳の少年は、周囲の大きな期待を背負いつつ、苦しみの渦中にいた。大谷と親交の深いスポーツライターが当時を振り返る。
たどり着いた甲子園のマウンドで、17歳だったあどけない彼は純粋に白球を見つめていた。そして、丸く刈り込まれた頭に夏の日差しをいっぱいに浴び、額に流れる大粒の汗を光らせていた。たった一度だけ立った、夏の甲子園のマウンド。7年前の夏の記憶である。
大谷にとって高校時代唯一となった2011年夏の甲子園は、まぶしくて、ただ一方では苦しい思い出でもある。夏の岩手大会直前に痛めた左足のけがの影響で、甲子園では万全の状態で挑めなかった。当初は肉離れと思われていたが、のちに骨端線損傷の診断をされ、高校時代の唯一にして最大のけがによって、ピッチングには制限があった。
無理はできない。打者方向へ踏み出す左足の歩幅を以前からも狭め、下半身に負担がかからない投球フォームで投げるのが精いっぱいだった。極端に言えば、上半身の力だけで投げた。本来の姿からは程遠いマウンド。あの夏、大谷は苦しさの渦中にいたのだ。
それでも、大谷は見せた。備え持ったポテンシャルのわずかな部分だったとは言え、その能力の高さに甲子園のファンは魅了された。
150キロ――。たたき出した球速は、当時は2年生としての甲子園最速タイ記録だった。
高校時代の大谷は、1年夏に背番号「17」をつけた。花巻東にとってその番号は、次世代のエース候補に与えられる特別なもの。07年夏の甲子園で、当時1年生だった同校の菊池雄星(西武)が背負ったことが始まりだが、今でも花巻東にとっては特別な数字である。当然のように大谷も背負った。そして、エースと成長していった。
2年夏の150キロを経て、3年夏にはアマチュア史上最速となる160キロを記録した。ただ、その数字自体に「大きな驚きはなかった」と言うのは、花巻東の佐々木洋監督だ。大谷の3年間を身近で見守り続け、彼の能力を誰よりも知る佐々木監督の言葉だからこそ腑に落ちる。
160キロも不思議ではない――。
日本プロ野球、そしてメジャーという舞台でも、投打二刀流で活躍し続ける大谷の姿を見れば、なおさらそう感じるのだ。
岩手の地で育まれ、磨かれていった能力は今、海をわたったアメリカの地でも大きな注目を集める。
拙著『道ひらく、海わたる 大谷翔平の素顔』の取材時に、彼からかけられた忘れられない一言がある。「いま、ワクワクしていますか?」。ちょうど執筆に取りかかろうとしていたタイミングでの言葉に「大切なもの」を贈られたような気がした。彼は笑いながら、冗談半分で語りかけてくれたと思うのだが、何事も「楽しむことが大事なんだ」ということを、僕は20歳年下の彼に教えられた。そして彼もまた、「楽しむ」スタンスで生きてきたんだな、とも知った。
メジャーの「てっぺん」を目指したいという思いは、花巻東時代から変わらない大谷の思考だ。これからも「自分が一番成長できる過程を踏みたい」とも話す彼は、日々の取り組みを大切にする。才能の豊かさに疑いの余地はないが、大谷には技術を高め続けようとする圧倒的な向上心と取り組みがある。その姿勢と思考があるからこそ、大谷は輝きつけるのだと思う。
150キロのスピードボールを見せてくれたあの夏も、苦しみがある一方で、その逆境を乗り越えようとする目の輝きがあった。甲子園の白球を見つめる純粋な目。そして、自身の可能性を信じて投げ続ける姿は、たとえ一瞬だったかもしれないが、今年で100回を迎えた夏の甲子園に深く刻まれている。
(スポーツライター・佐々木亨)
※週刊朝日限定オリジナル記事