学生時代から山一色でした。北海道大学に進学したのは、スキーと山登りがしたかったから。学長秘書をやっていた妻も、アルペンスキーの選手だったんです。大学を卒業してすぐに結婚しました。

 そしてそのまま大学に残り新しくできた動物薬理学研究室の助手になったんだけど、やっぱり山が恋しくてね。狭い研究室にずっといるのは性に合わなくて、1年ぐらいで辞めちゃった。

 妻に相談したら、もろ手をあげて大賛成。「あなたは昔から、相手が偉い教授でも何でも、自分の意見を平気でぶつけてた。そういう人は日本の学者の世界には向かない」って。最初から、長続きしないだろうって思ってたんだろうね。

 で、ふたりで60年のスコーバレー(アメリカ)五輪を目指すことにしました。58年の全日本スキー選手権青森県予選で優勝。でも出場選手枠のことで連盟に意見を言ったら、話がこじれて、アマチュア資格を剥奪されちゃったんです。

 そのときは「ああ、夫婦でオリンピックに行けなくなったな」と残念だったけど、その気持ちはすぐに消えました。じゃあプロスキーヤーになって、そっちで世界一を目指そうという新しい目標ができた。

 今思えば、たとえオリンピックに出られたとしても、当時の自分のレベルでは参加するだけで終わっていたでしょうね。

 連盟とモメたことに後悔や恨みはありません。人間万事塞翁が馬と言いますが、おかげで誰もやっていないことをたくさんできましたから。

――運動具店で働きながらプロスキーヤーを目指し、冬はスキー場でレッスンプロ、夏は日本アルプスで100キロ近い荷物を運ぶ歩荷として働いた。

 経済的には苦しかったけど、目標があったから、つらいどころか毎日が楽しかったですね。

 アマチュア資格を剥奪された4年後ぐらいに、アメリカの世界プロスキー選手権に参加し、世界のベスト10に入れた。成績に納得はしたんだけど、やっぱり人と競争するよりひとりで挑むほうが性に合っていると思ったんです。次はスキーのスピード記録に挑戦することにしました。

次のページ