北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表
オジサンも怖かったんだね(※写真はイメージ)オジサンも怖かったんだね(※写真はイメージ)
 作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。今回は、「電車内で女性が恐れること」について。

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 昼間の地下鉄、空いている車内に突然、男性の怒声が響いた。女性が「殴りましたよね」と優先席に座っている男性に訴えているのが見えた。「殴ってねぇよ!」と叫ぶ男性の声は、今にも飛びかからんばかりの強さだ。それでもほとんどの人は、すぐに視線を戻した。私たちには、これが日常、よくある車内のいざこざだ。ただ、「殴った」というのが気になり近寄っていった。

 若い女性だった。「大丈夫?」と聞くと、「駅員を呼んでください」と口をゆがめた。ドア付近に寄りかかるように立ったら、背後から殴られたと言う。男性は70代だろうか。つけている紙マスクが毛羽立っていて、季節はずれの薄着は、よれよれだった。もしかしたら認知症かとも思いながら「殴ったの?」と聞くと「俺は触っただけ、殴るならきちんと殴る」と吠えた。

 仲裁したかったわけじゃない。ただ女性を一人にしたくなかっただけだけど、その言葉で、火が付いてしまった。「殴るならきちんと殴る」? は?と、カッときた。

 幼い頃から電車で何度も目撃してきた。被害にあったこともある。車内で女が恐れるのは痴漢だけじゃない。暴言吐かれたり、こづかれる怖さもある。「意識過剰なんだよ、ブス」と切れる男や、「化粧臭い」と女性を頭ごなしにしかる男性を見てきた。で、オッサン、今、なんと? 「少なくとも、触ったんだよね。謝りなさい」。私は男性に詰め寄った。そうしているうちに駅に着いたので、ホームの駅員に「車内で殴られたと言う女性がいます」と声をかけると、男性は立ち上がり「電車を止めるなら降りるよ」と言って席を立った。

 
 男性がよろよろと立ち上がる、その時。折りたたまれた白杖がゴトンと床に落ちた。男性は、強度の弱視だった。

 それからホームで、私と女性と3人。駅員はなぜかどこかに行ってしまい、私たちは3人で話した。「オジサン、見えないの?」と聞くと、興奮した調子で男性は言った。「入り口に立たれると危ないんだよ! 俺みたいな人間がたくさん死んでるんだ」。そんなこと、知らなかった。「オジサンは怖かったんだね」。絶句するように言うと、男性は目をパッと開くようにして涙を浮かべた。「そうだ、怖かったんだ」と。私は心臓がドキドキしていた。だけど言わなくては、と思った。「でもオジサン、突然こづかれたり、大声出されるのは怖い。女性はそういう目によくあってる、凄く怖い」。そう言うと、驚いたことに男性は怒りの念がすーっとからだから離れたかのようになって、静かな声で、「そうか、そうだよな」と言ったのだった。

 駅員はどこかに行ったまま帰ってこない。私は次の予定がある。オジサン、わかってくれてありがとう、女子よ、きちんと抗議できて格好いいよ。そして私は通りすがりのフェミ。怒りというもの、声にならない声というものについて考えながら、駅の階段を駆け上がった。駆け上がらずにはいられなかった。

週刊朝日 2018年3月23日号