週刊朝日と同じ、1922年生まれの内海桂子師匠。作家の林真理子さんとの対談では、16歳でデビューするまでの人生経験の豊富さに圧倒されるほど。「命がけ」で生き抜いた時代を赤裸々に語ってくれました。
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内海:小学校3年しか出ないで神田のそば屋の奉公に出ましたから。そばは作れませんが、子守したり、お膳やおちょこ出したり、やれることは何でもやらされたんです。
林:3年生というと、9歳ですね。
内海:数えで10歳ですね。うちのお袋は20歳であたしを産んだの。おとっつぁんも同じ年で籐の職人なんだけど、籍が入ったかもわからない状態で終わってしまった。お袋は床屋の一人娘だから、実家に戻ってそこで働いてるおじさんと一緒になった。それであたし、家が欲しいんじゃないかなと思って探してやったの。「かあちゃん、あそこ空いてるよ。家賃8円だよ」って教えて、「ああ、いいね」となったら、敷金20円が必要だった。親にそんなお金がないのはわかってるから、あたしは自分の体をそば屋にあずけてお金借りてやったの。
林:まあ、親御さんのために。
内海:でもね、そんなのあたりまえだと思ってた。うちはお金がないけど、あたしが働けばいくらか入ることがわかっていましたから。
林:師匠のお母さまは長生きされて、師匠のご活躍をご覧になれたんですか?
内海:88歳まで生きましたからね。家も建ててやりました。このあいだ数えてみたら、いま住んでいる家も含めると、あたしは生涯で5軒家を建てましたね。
林:すごい。お母さま、すごく喜ばれたでしょうね。師匠、学校の勉強はお好きだったんですか?
内海:嫌いじゃなかったけど、続けられる状態じゃなかったからね。世の中、学校だけじゃないから。行った先で役に立てば、それが勉強になるのね。
林:一生懸命働かれたんですね。
内海:そば屋は5年奉公するはずだったけど、坊ちゃんにおもちゃの刀で頭をたたかれて血だらけになったの。それで「よその娘さんを傷つけた。申し訳ない」と2年で明けて、家に戻ったの。奉公の間に見聞きした映画や流行歌、番頭さんのふるまい、そういったものが芸人になったときにずいぶんと役立ちましたよ。