ただし、赤線の業者に対しては、1.前借金制度の廃止2.身体その他の自由を拘束する行為の禁止3.搾取の禁止──の3点について、指導を徹底された。人身売買のような前時代的な行為は禁じられたのである。

 木村さんが書いた『消えた赤線放浪記』(ミリオン出版)には、こんなことが書いてあった。

〈戦後になってつくられた赤線の建物は、建前上の業種がカフェーや喫茶店といった飲食店だったために、急造ながら明るい洋風の外観をたずさえていることが多かった〉

 従来型の陰湿で閉鎖的な遊郭というイメージとは異なり、戦後の開放的な風俗としてとらえられていた赤線もあったようである。

 同書をひもとき、赤線のいくつかを紹介する。

北海道・釧路……南はずれにあたる米町(よねまち)。店の数は三十数軒。木造2階建ての妓楼が軒を連ねる遊郭時代からの街並みがそのまま残っていた。いまは住宅地になっているという。
・青森・第三新興街……青森駅のすぐ近く。地元ではピンクサロン街として知られ、いまも小料理屋やバーが数軒並ぶ。往時を思いながら、雪深い季節に、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」を歌いながら歩くと気分が出るのでは。
・横浜・黄金町……大岡川と京浜急行のガード下に沿った極端に細長い町。終戦後に住宅として使われ、次第に飲食店が増え、女性が客を引く店も現れた。いわゆる「ちょんの間」。地域住民らの環境改善運動もあり、2000年代に“浄化”された。

 このほか、名古屋・中村、大阪・飛田新地、京都・五条楽園など日本列島の各地に赤線はあった。

 私が地元の人から聞いて印象に残っているのは(もちろん時代が違うので、行ったことはない)、東京都江戸川区の小岩にあった「東京パレス」である。時計工場の女性労働者の宿舎を買収。終戦の年の秋、進駐軍向けに建てられた。家族を養うために身を売る戦争未亡人たちが流れてきたそうである。小川が流れ、裏の田んぼからはカエルの声が聞こえたが、夜は人間の欲望渦巻く不夜城に一変。ドルで財布を膨らませた外国人は、日本人の何倍もの料金を取られたという。

 いまや「赤線」という言葉自体、死語かもしれない。往時茫々。飲食店の形を取りつつも、女性と同伴できるなど、あの手この手で続いているところもあるというが、実際はどうなっているのだろう? 古風なピンクサロンの看板も、街角の電柱にはってあったストリップ小屋のポスターも、いまでは見かけることがほとんどなくなった。「昭和」という時代が懐かしい。

週刊朝日 2016年12月16日号

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