赤線廃止後の吉原遊郭の様子=昭和33年5月、東京都台東区 (c)朝日新聞社
赤線廃止後の吉原遊郭の様子=昭和33年5月、東京都台東区 (c)朝日新聞社
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 社会風俗・民俗、放浪芸に造詣が深い、朝日新聞編集委員の小泉信一氏が、正統な歴史書に出てこない昭和史を大衆の視点からひもとく。今回は「赤線」。

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 先週の主題は「青」(ブルーフィルム)だったが、今週は「赤」。青は映像だったが、赤はリアルだ。そして、青は非公認だったが、赤は事実上の“公認”だった。1946年の公娼制度廃止以後も存在できたのである。

 溝口健二監督の映画「赤線地帯」をご存じだろうか。舞台は警察の地図に赤線で囲まれたといわれる特殊歓楽街。江戸時代から続いた吉原遊郭の「夢の里」を描いた作品である。

「本当にお前たちのことを心配しているのは俺たち業者だ。こうやって店を作って商売させてるから、お前たちは食うのに困らないし、一家心中だってせずにすむんだ」と経営者が言う。さまざまな事情や過去を抱え、借金を背負った女たちが「夢の里」で働いている。戦後の貧しさが暗い影を落としていた。

 映画の公開は昭和31(1956)年3月。当時の時代背景について、吉原の旧赤線地帯で暮らしていた風俗ライター、吉村平吉さんはこう語っていた。

「赤線の線を戦にひっかけて『線中・線後』という世代分けがはやったこともありましたが、江戸の廓を思わせる風情がまだ吉原にはありました。ですが、そこは東京の谷間。明るいか、暗いかは見る人によって判断が異なりました。良かれあしかれ、この街にしか宿れなかった貧しい娘さんたちがいたのも、歴史の事実です」

 だが、昭和33年4月1日の売春防止法完全施行をもって、赤線の灯はひっそりと消えたのである。5万人以上の女性が「職」を失ったといわれている。

 その昭和33年とは、どんな年だったのか。

 2月に日劇ウエスタンカーニバルが始まってロカビリー旋風が吹き荒れ、4月には長嶋茂雄がプロ野球にデビュー。12月には東京タワーが開業した。電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビがもてはやされ、「三種の神器」と呼ばれた。敗戦による混乱も落ち着き、衣食住の不自由もなくなった。米国の生活様式をモデルにした「生活合理化」への意欲が高まっていた。

 話を「赤線」に戻す。戦後風俗史に詳しいフリーライター、木村聡さんによると、戦後の混乱期、大衆のガス抜きの目的もあり、娼婦を集める必要性を半ば感じた日本政府はGHQの了承を取り付け、“公娼”地帯を定めることになった。その俗称が「赤線」だ。冒頭に書いたように、地図の上で営業許可区域を赤い線で囲ったことが名前の由来になったと言われているが、確証はない。

 厚生省公衆衛生局(当時)の調査によると、昭和30年代初めには、赤線地帯は全国1千カ所以上あり、店の総数も1万5千軒はあったとされる。何ともすごい数である。そこから得られる税収も、バカにはできなかったはずだ。

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