作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。北原氏は、電通女性過労自殺に男社会で「うまくやる」ことを求められつづけている女性の立場を考えたという。
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私が大学を卒業したのは1993年。大学院を希望していたので就職活動はしなかったけれど、友人に誘われマスコミ就職希望者のための勉強会に参加したことがある。
20人くらいの学生が参加する会で、新聞記者の男性が講師だった。指名された人が全員の前で、模擬面接のようなことをした。真っ先に声をかけられた私に彼が怒鳴るように「名前は?」「趣味は?」など高圧的に聞いてきた。ドキドキしながら「趣味は写真を撮ることです」と答えたのを覚えている。すると男は「尊敬している写真家は?」と聞き、あまり考えずに「ロバート・キャパ」と答えると、男が切れ(たように見えた)、「平凡だな! なぜキャパ? どの時代の何の写真だ? 説明しろ!?」と叫んだのだった。
それは「圧迫面接の練習」だということは後で分かるのだけど、そんなコミュニケーションなど、小学校の暴力教師以来で、ひたすら怖かったのを覚えている。
また「授業」の後に男につれていかれた居酒屋でも、男は「社会人としての酒の席の振る舞い」のようなことをレクチャーしたがった。男は当然のように女子学生を自分の近くに座らせ、酌を求めた。服装についても「スカートをはけ」とか、化粧のことも何か言っていた。すべてがどうでもいいアドバイスだった。
自分でも予期していなかったのは、その日を境に私が自己嫌悪に苛まれたことだった。そんなところに行った自分。男の怒鳴り声に怯えた自分。男に言いたい放題言われた自分。本当ならば、暴力的な振る舞いに怒ればいいのに、圧倒的な権力関係があると「うまく振る舞えなかった自分」を責めてしまうものなのだ。とても惨めだった。
電通の女性社員の過労自死が認められたことを知り、20年前の記憶が蘇った。
彼女を責め、からかい続けた“オジサン”は、私と同世代の可能性は高いのではないか。20年前のマスコミ塾で男の怒鳴り声に、最も従順に従っていた男の子たちの顔を思い出した。負の連鎖が、そう簡単に途切れるはずがない。こうやって、日本社会で男は男を育ててきたのかもしれない。こうやって女は男の価値の中で「うまくやる」ことを求められ、そうできない女は潰されてきたのかもしれない。そして、そういう社会のつけを払わされるのが、残酷なことに、「うまくやれない」と、自分を責めてしまう側なのだ。
テレビのなかでは今日も、男たちが女の容姿や女子力をからかったり、指導したりしてる。楽しげに。でも、もういい加減、笑えない。もういい加減、疲れた。女たちの声にならない声が、叫びのように聞こえてくる。
※週刊朝日 2016年10月28日号