クッキン・ウィズ・ザ・マイルス・デイヴィス・クインテット
この記事の写真をすべて見る

 オーディオつまり音楽の電気再生において難しいもののひとつに、ビブラートの表現がある。ビブラート(vibrato)とは文字どおり音を震わせる技法のことだが、オーディオの再現性が高まるにつれ、スピーカーの振動板が空気をガッチリとつかまえて、音を震わせるさまがだんだんと明瞭になってくる。

 音質評価にはいろんな目安があるけれど、演奏者が意識的に乗せてくるビブラートが明瞭かどうかはとてもだいじなポイントだ。

 ジャズメンのなかには、ビブラートを好んで用いる人もいれば、まったく使わない人もいる。

「そんなに音を震わせるんじゃない。年を取れば誰だって震えるようになるんだから」

 ハリー・ジェームスの真似をしてトランペットを吹いていた少年マイルスに、教師エルウッド・ブキャナンは諭すように言った。マイルス・デイヴィスが生涯ノンビブラート奏法を貫いたのは、ブキャナン先生の教えによるところだ。というのはあまりにも有名な話。

 しかし、例外的にマイルスがビブラートをかけている演奏がある。1956年10月26日録音、プレスティッジのマラソンセッション『クッキン』の一曲目、「マイ・ファニー・バレンタイン」がそれだ。

 あきらかに、この演奏でのマイルスは意図的にビブラートを用いている。なぜ?ミュートでのバラード演奏だからビブラートでもかけないと間がもたなかった?

 同じようにハーマンミュートを取り付けたバラードの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」でも「イット・ネバー・エンタード・マイ・マインド」でもビブラートはかけていない。しかし、よく聴いていると、トーンを伸ばしてビブラートをかけるかなと思う寸前に次のフレーズに移行しており、ビブラートをかける余地のないフレージングを用いているのがわかる。

 では、なぜよりによって「マイ・ファニー・バレンタイン」だけ音を震わせて吹いたのか?たまたまそういう気分だった?そう言ってしまえばそれまでだが、気になりだしたら気になるもので、所有するマイルスの音源を片っ端からビブラートをかけてないか点検してみた。

 コロムビアのライブ盤『マイ・ファニー・バレンタイン』の同曲もビブラートをかけていなかったが、ライナーノートに日野皓正のインタビューが載っていて、マイルスに電話越しでトランペットを吹いたら、「ビブラートはかけないほうがいい」とアドバイスされたという。ジョン・コルトレーンもマイルスのバンド在籍中はビブラートをかけなかったし、きっとマイルスは、後進にもノンビブラートを指導していたのだろう。

 そうこうしてるうちに、音を震わせるマイルスを発見!1961年5月19日録音『マイルス・デイヴィス・アット・カーネギーホール』の「スプリング・イズ・ヒア」。これは震えてます。しかしなんだか様子が変だ。力が入りすぎている。このカーネギーホールの晴舞台に共演したギル・エヴァンスの話では、「マイルスも私も吐きそうなほど緊張していた」というから、ほんとうに脚が震えていたのかもしれない。

 ブキャナン先生の「そんなに音を震わせるんじゃない。年を取れば誰だって震えるようになるんだから」という予言は、ここに成就したということか。

【収録曲一覧】
1. マイ・ファニー・ヴァレンタイン
2. ブルース・バイ・ファイヴ
3. エアジン
4. チューン・アップ~ホエン・ライツ・アー・ロウ

[AERA最新号はこちら]