甲子園にはしばしば怪物が現れる。和歌山・海草中の嶋清一(1920.5)は伝説の大投手だ。39年の第25回大会で、現在まで誰も破れない大記録を残した。初戦から全5試合完封、準決勝・決勝は連続ノーヒット・ノーラン。だがメンタルは弱く、失投の苦い過去があった。作家木内昇氏が追う。
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■監督の信頼でメンタルを克服
この大会直前、海草中野球部は新たな監督を迎えている。召集された長谷川監督に代わり、明治大学の選手だった杉浦清が臨時監督として赴任したのだ。
部員たちも敗戦から気持ちを切り替え、翌年に向けて猛練習の日々がはじまった。
「長谷川監督とは対照的に、杉浦さんの指導は、合理的で理論的だったと聞いています。体力的にはしんどかったけれど練習は非常に楽しかったと、古角さんも言っていました」(松本氏)
選手すべてを同じ型に落とし込むのではなく、個々の特性を生かし、長所を伸ばしていく指導を、杉浦は行ったのではないか。
この杉浦を、「大学生でもここまでの投手はいない」と、うならせたのが嶋だった。直球、変化球とも精度が高い。コントロールも球速も抜群である。その上、打撃も常に3割以上をキープ、100メートルを11秒で走る俊足まである。
これほど優れた選手を勝たせられずにおられるか、と杉浦は発憤したに違いない。細やかに指導し、その投球を惜しまず讃えた。これが嶋の自信になった。杉浦の信頼が、嶋の最大の弱点であるメンタル面の弱さを払拭したのである。
昭和14(39)年の第25回大会で、海草中は快進撃を見せる。1回戦、2回戦、3回戦と無失点で勝利。続く準決勝の島田商戦で、嶋は17奪三振で、ノーヒット・ノーランを達成する。決勝の下関商戦でもノーヒット・ノーランを成し遂げた。前年の雪辱を果たしただけでなく、前人未到の大記録まで打ち立て、嶋は5年間の中学野球生活を締め括ったのだ。
翌年、嶋を欠いた海草中は、のちにプロで活躍する真田重蔵を投手に据えて2大会連続で優勝。だが翌16(41)年は、地方大会までは行われたものの、戦局が厳しさを増す中、本大会は中止となった。交通規制、旅行の規制も行われる中、7月中旬に文部省から「全国的なスポーツの催しは禁止する」と突然通達があったためだ。以降、終戦を迎える昭和20(45)年までの5年間、甲子園大会は中断される。