北朝鮮の玄永哲(ヒョンヨンチョル)・人民武力相(国防相)が処刑されたとの情報が5月中旬、韓国の情報機関、国家情報院によって公表された。玄永哲は2010年、金正恩と同時に朝鮮人民軍大将に昇進し、総参謀長も務めた軍内序列ナンバー3の立場だった。
裁判が行われることもなく、4月末ごろ、「反逆罪」で数百人が見守るなか高射機関銃で銃殺されたようだ。
その結果、国内では幹部たちの金正恩(キムジョンウン)への忠誠心競争が激化し、権力闘争がエスカレートしているという。
北朝鮮の国内事情に詳しい関西大学経済学部教授、李英和氏が解説する。
「父親、金正日の時代も権力闘争はありました。金正日(キムジョンイル)は絶対的な権力を掌握していた。そのうえでの、後継者問題を背景とした抗争だった。金正恩執権後は彼の権力掌握を目標として、対外利権などの資金源の奪い合いになっています。経済制裁で外貨獲得が一層困難になり、各部署ごとにアングラマネーに手を出し、資金獲得に躍起になっているようです」
そして、この資金源の奪い合いが実は、拉致被害者再調査の進展にも影響を及ぼしているというのだ。
昨年5月、スウェーデンのストックホルムで拉致被害者再調査に関して北朝鮮と協議し、合意をみた。「ストックホルム合意」である。
日本側は拉致問題を最優先として、「特別調査委員会」が立ち上げ、調査が開始された時点で制裁の一部を解除すると明文化した。
北朝鮮側はすぐに「特別調査委員会」を発足させ、夏の終わりから秋の初めに調査の初回報告を行うとしていたが、9月になると報告の延期を通告。
徐副部長は特別調査委員会委員長、姜局長は同委員会の拉致被害者分科会の代表だ。どういうことか。
日朝関係の改善は、経済制裁の解除から始まり、日本との間にさまざまな利権が生まれる。その利権獲得の手柄を保衛部が独占することに警戒感を強める勢力が出てきたというのだ。
金正恩の直轄組織で軍、党の人事権を持ち、各組織の業務と思想を監督する朝鮮労働党組織指導部とそれを指示する黄炳瑞(ファンビョンソ)・軍総政治局長だ。この抗争には当然、金正恩の意思が反映されていた。
李氏によれば、現在、黄軍総政治局長は健在、保衛部の3人も粛清されたという情報はないため、両者の権力闘争は保衛部が盛り返し、拮抗状態にあるのではないか、という。
「拉致問題は本来、北朝鮮にとって償うべき負債のはず。ところが、02年の小泉首相の訪朝後から、“外交資産”になってしまった。つまり、拉致をちらつかせれば、日本政府は協議に応じる。北朝鮮が必要とする見返りを日本から引き出せると思ってしまった」(同)
だから、金正恩の側近たちによる拉致の利権争奪戦は続き、解決は簡単に進まないだろうという。
一方の日本側は、日本人拉致そのものに関与し、拉致被害者の管理・監督を行っているとされる国家安全保衛部が、拉致問題交渉の窓口になることで、解決に向けて大きな期待を抱いていた。政府は早々に制裁の一部を解除したが、ストックホルム合意から約1年を経ても、進展の様相は見えていない。
「対話と圧力」「飴と鞭」という方針をもって、日朝協議のテーブルについた安倍政権だが、「対話」は裏切られ、「飴」だけ食い逃げされた格好だ。
(ライター・文富恵)
※週刊朝日 2015年5月29日号より抜粋