長崎県の五島列島には、およそ50もの教会がある。260年間の隠れキリシタン信徒たちは、明治になって自分たちの祈りの場所を、過酷、残忍な弾圧の末に晴れて堂々と誇りと愛に満ちて作ったのだ。しかし各集落の人々は、今でなら何億円もの建設資金をどうやってひねり出したのか。今年、スペイン国王よりエンコミエンダ文民功労章を受章した画家の堀越千秋が世界文化遺産登録を目指す、祈りの場を訪れた。
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僕らはキリスト教の不思議、つまり奇跡を見ているに違いない。彼ら、貧しい人々、ひたすらレンガや石やしっくい用の貝殻を背負った人々こそ、正にキリストたちであった。彼らの父や母、隠れキリシタンとして迫害され、殺害された人々こそ、正にキリストたちであった。キリストの教えを背負うて行う人々こそキリストであった。他にキリストがいるのか?
僕は各教会を守るガイドさんたちに聞いて回った。
「何故そんな迫害を受けてまで教えを捨てなかったのですか?」
主婦のUさんは言った。
「私は結婚してからクリスチャンになったんですが、教えを守って行っているとだんだん実際に感じるようになったんです。確かに何かが私を助けている、守っている、何かをくれているって。言葉だけじゃなくて、体が実感するんですよ。不思議ですよ」
しかし、長崎の国宝・大浦天主堂を拝観して、僕はある崩壊を見た。可憐にして壮麗な木造の美しい内部だが、神の声を聴くべき祭壇にはスピーカーが置かれ、バスガイドみたいな黄色い女声がテープでひっきりなしに解説をしている。
世界中でこんな悲しい教会はない。一人300円の拝観料と引き換えに、祭壇を観光客にあけ渡すだなんて、そんな教会もお寺も僕は見たことない。
一体、金が信仰のために必要だというのか? 世界文化遺産。もっとも、不信仰な遊び人の僕は、山中のビニール張りの茶室で昼寝して知ったこっちゃないが。
無人島の野崎島の坂を登っていると、突然快晴になった。青い海、青い空、吹く風だけがある。すでに祈る人とてない、レンガ造りの旧野首教会が、ただ立っている。
恐ろしいものを見た。人類は、一体何のためにこの地上に居るのだろう?
海も空も教会も、今はただ存在しているだけだ。祈りはない。言葉はない。風が吹いている。寒い寒い寒い。恐ろしい。あわてて言葉を探してみる。仏も、キリストも、言葉だ、ということが分かるだけだ。
※週刊朝日 2014年12月26日号より抜粋