「プロ入り後は苦労した。変則な投球フォームがウリではありましたけど、プロの打者は慣れるのが早い。慣れてくれば150キロ前後の真っ直ぐは打撃練習みたいなものですからね。17年に受けた手術も勤続疲労からきたもの、という話もあります。高校時代は沖縄の期待を一身に背負っていたわけだから、無理をしてきたのだと思います。生粋の沖縄人で、素直ないい子でした」

 プロ入りから身近で接していた球団関係者は、島袋の実直な性格についても語ってくれた。もう少し体が大きければ……。もし素直でいい子すぎなければ……。さまざまなことを考えてしまう。

 一方、一二三は野球エリートの道を歩んでいた。中学時代はジャイアンツカップで優勝し、将来のプロ入りを目指して大阪から神奈川の名門・東海大相模高へ。2年秋からエースとなり3年の春夏に甲子園出場、夏は準優勝を果たした。

 そして10年にドラフト2位で阪神入団。横手投げのパワー系投手として高い評価をされていた。しかし、プロ入り後すぐに右肩を故障し、投球フォームを高校途中までの上手投げに戻すなど試行錯誤したが、プロ入り1年で投手は断念することとなった。

 プロ入団時から見てきた阪神担当記者は当時を振り返る。

「すごい投手だと評価は高かった。横手から150キロ以上の球を投げる。もともと抜け気味の球だったこともあり、シュートも切れる。先発、抑え、どこでもできると首脳陣は高い評価をしていました。横手にしたのは高校3年からなので、投げ方で無理をしていたのが故障の原因だったのではないでしょうか」

 投手を断念した一二三は春夏の甲子園で通算25打数15安打を記録した打撃力を活かし、12年から外野手に転向。阪神に長年出てこなかった右打ちの和製大砲として期待が高まったが……。

「打撃力は入団当時から高く、投手の打撃練習では飛び抜けた飛距離を誇っていた。16年から指揮した金本知憲監督や、掛布雅之二軍監督からは大きな期待をされていた。打撃に関しては天才タイプだったので、結果を出せてしまう。そういう意味で必死さが足りないように映ることは多々ありました」(前出阪神担当記者)

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戦力外後は対照的な人生に