14年に春夏連続出場した岩国の4番・二十八(つちや)智大も記憶に新しい。その由来については、古語で「十」を「つづ」と読んだことから、埼玉県に多い廿楽(つづら)姓同様、「二十」も「つづ」に転用したようだ。もともとは「つづや」だったと思われる。

 甲子園出場がきっかけで、ご先祖様のルーツ探しにもひと役買ったのが、80年に滋賀県勢で初の4強入りをはたした瀬田工の三塁手・若代(わかしろ)悟だ。

 広島市在住の会社員・若代芳朗さんは、太平洋戦争中に亡くなった父から「我が家の先祖は3、4代前に滋賀県大津市から広島にやって来た」という話を聞かされて以来、「ぜひ墓参りをしてみたい」と熱望していたが、長い間、手掛かりを得ることができなかった。

 そんな矢先、たまたまテレビ観戦していた夏の甲子園3回戦、瀬田工vs秋田商で、同姓の選手が7番サードで出場していることを知り、一縷の望みを託して、同校に電話連絡。西宮市の宿舎にいた本人にコンタクトを取った。

 同姓の見知らぬ人からの突然の問い合わせに「何のことかわからない」と目を丸くした本人だったが、大津市在住の父・寅雄さんに事情を説明してバトンタッチすると、その後、本家の伯父や地元の研究家の協力も得て、芳朗さんのルーツと墓所が判明。お互い遠い親戚同士であることもわかった。

 寅雄さんは「息子が甲子園に出してもらっただけで、うれしいのに、こんなおまけまでついて」と思いがけない出会いを喜んだ。準々決勝の浜松商戦で、1対0の1回に勝利につながる2点タイムリーを放った息子も「野球をしたことで、まったく離れた人と関係があることがわかるなんて不思議ですね」(同年9月4日付朝日新聞夕刊)と感慨深げだった。

 ごく普通の名字だったら気づかないのに、「ひょっとしたら?」と気になったのは、まさに珍姓がもたらしたご利益だった。

 ちなみに同年の瀬田工には、橘高(きったか)淳というもう一人の珍姓選手(捕手)もいて、阪神で3年間プレーしたあと、審判に転身した。

 審判といえば、かつての甲子園大会の審判も、西大立目(にしおおたちめ)永、達摩(だるま)省一、郷司(ごうし)裕と個性的な名字が多かった。

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