■僕には金がなかった

 それは悪魔の囁きにも聞こえた。フリーランスのライターの間には、ひとつの定説があった。海外の旅行の仕事は受けてはいけない……と。理由は費用対効果が悪いためだった。インターネットはなかったから、海外から原稿を送ることができなかった。メールでの打ち合わせもできない。原稿は帰国してから書くことになる。短いサイクルで仕事をこなすことができないのだ。

 しかし僕には金がなかった。経費とはいえ12万円をもらえることはありがたかった。ギャランティーは1ページ1万円だった。グラビア5ページ分である。初回の旅をこなしてわかったことは、この金額は安いということだった。2週間ほど旅に出、帰国して1週間ほどで原稿をまとめ、その後の1週間はゲラの校正になる。つまり1カ月がかかる仕事だった。その報酬が5万円……。30年前とはいえ、とても暮らすことはできなかった。森氏に窮状を訴え、若干、値あげしてもらったが。

 この企画は、編集部から12万円を受けとり、その費用でどこまで行って帰ってくることができるか――というものだった。そこには飛行機代や宿代はもちろん、食事や飲み物、煙草など、旅先でかかる費用がすべて含まれていた。森氏がこの企画を思いついたとき、ヤンゴンの空港で、欧米人の間をちょこちょこと歩きまわっていた僕の姿が浮かんだのだろう。(あいつなら、かなり遠くまで行って帰ってくるんじゃないか?)

 もっともこの企画は、僕が担当する節約旅ばかりではなかった。近いソウルに出向き、最高の韓国料理を食べて12万円……といった内容も含まれていた。そういうおいしい企画は社員の記者が担当するというコンセンサスもあった気がする。なにしろ時代はバブルなのだ。ビンボー臭い話ばかりでは、グラビアに華がなくなる、という心配もあったのだろう。

 いくら内実がわかっても、僕は受けざるをえなかった。金がなかったのだ。

『12万円で世界を歩く』という1冊の本は、その後の僕の方向を決めることにもなった。この本の出版以降、僕の仕事は旅の本に大きく傾いていく。フリーランスのライターだから、依頼がきた仕事をこなすことになるが、旅行本の割合が一気に増えていったわけだ。その仕事を重ねるうちに、僕は旅行作家といわれるようになっていく。

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ビンボー旅行の色に染まっていった