親に金を出してもらい、曲がりなりにも慶應義塾大学に通っていた。きちんと卒業して就職することが親に報いることだと、信州の松本の高校を卒業した僕は考えていた。
学生だから金はなかった。アジアを歩くといっても、高級なホテルに泊まることができるわけではなかった。人生のスタイルは違ったが、旅のスタイルはバックパッカーだった。もっともその頃は、ザックではなく、肩からもかけられる大きな鞄で旅をしていたが。
大学を卒業し、なんとか新聞社に入社した。しかし3年で辞めてしまった。それは世間でいう優等生的な人生から逸脱することだった。その世界に足を踏み込んでしまうと、その先にあるのはバックパッカーという旅だった。ヨーロッパからアフリカ、アジア……。1年近く旅をした。27歳のときだった。そのとき、僕の旅のスタイルは決まったように思う。バックパッカースタイル、つまり当時のいい方に沿えばビンボー旅行だった。
帰国してフリーランスになった。自ら進んでなったわけではない。生活のために仕事をしているうちに、フリーランスのライターになっていた。そのなかで『週刊朝日』と出合うことになる。当時、「デキゴトロジー」というコラムページがあった。そのスタッフになった。担当デスクが森啓次郎氏だった。
1983年頃のことだったように思う。9月だった。森氏が遅い夏休みをとることになった。僕は2週間ほど、当時はビルマと呼ばれたミャンマーに行こうと思っていた。一緒に旅に出ることになった。
バンコク経由でミャンマーのヤンゴンの空港に着いた。ターミナルの建物は木造という時代だった。預けた荷物が出てくるターンテーブルもなく、ロンジーという筒状の民族衣装を穿いた若者にタグの控えを渡すと、どこからか荷物を運んできてくれるという感じだった。
空港から市内に向かうバスもなかった。僕はそれまでの旅でもそうしていたように、到着ロビーにいた欧米人旅行者に声をかけはじめた。市内に向かうタクシーに一緒に乗り、運賃をシェアしようと思っていたのだ。