日本を発って4日目の夜、赤道を通過。30年がたってもやることは同じ(『12万円で世界を歩くリターンズ』2019年刊、写真/阿部稔哉)
日本を発って4日目の夜、赤道を通過。30年がたってもやることは同じ(『12万円で世界を歩くリターンズ』2019年刊、写真/阿部稔哉)
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日本を発って5日目の深夜、ついに赤道を通過(『12万円で世界を歩く』1989年刊、写真/阿部稔哉)
日本を発って5日目の深夜、ついに赤道を通過(『12万円で世界を歩く』1989年刊、写真/阿部稔哉)

 赤道越え、ヒマラヤトレッキング、バスでアメリカ一周……。80年代に1回12万円の予算でビンボー旅行に出かけ、『12万円で世界を歩く』で鮮烈デビューした下川裕治氏が、30年の時を経て、同じルートに再び挑戦した。あれから、旅は、世界は、どう変わったか? その旅は『12万円で世界を歩くリターンズ――赤道・ヒマラヤ・アメリカ・バングラデシュ編』(朝日文庫)としてまとめられ、出版された。自身の旅行作家としてのその始まりについて、下川氏は語る。

*  *  *

 話は30年前に遡る。いや、40年近く前からはじめないといけないのかもしれない。
 大学時代に僕はしばしば旅に出た。春休みや夏休みといった長い休みになると、きまってアジアを歩いていた。当時、大学生は長い休暇を使って実家に帰り、運転免許をとることが多かった。そのとき、僕はアジアを歩いていたから、在学中に運転免許をとることができなかった。そのまま40年近くをすごしてしまった。いまでも僕は車を運転することができない。

 当時、バックパッカーという旅行スタイルに日本人は馴染みがなかった。僕もそうだった。はじめてこの言葉というか、旅のスタイルを知ったのは22、3歳の頃だったように思う。タイ北部のチェンラーイだった。朝、宿に近い食堂に入ると、ひとりのオーストラリアの青年がビールを飲んでいた。彼は1年ほどオーストラリアの建設現場で働いて金を貯め、それを資金にアジアをまわっていた。

「インドや東南アジアなら、2、3年は旅ができる」

 そう彼は教えてくれた。バックパッカーという用語もそのとき知ったと思うのだが、あまり記憶には残っていない。僕を魅了したのは、1年、オーストラリアで働き、その金で2、3年の旅をするという人生のスタイルだった。僕の頭のなかには、大学を卒業して企業に就職していくという道筋しかなかった。そのラインからはずれて生きていく日本人も少なくなかったが、無縁なことだと思っていた。

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新聞社を3年で辞めてしまった