■ビンボー旅行のレジェンドと紹介された

 しかしそれは一抹の寂しさを携えてもいた。僕にとっての旅を、本という世界に売ってしまったわけだ。旅の本という世界に足を踏み込むと、旅のなかで、いつも書く素材をみつけようと視線が動くようになっていってしまう。本来は休暇とか遊びであるはずの旅に、仕事というものが無遠慮に入り込んでしまうのだ。しかしそれで僕は収入を得、その後の人生をなんとか生きてきたわけだから、感謝しなくてはいけない1冊であることに変わりはないのだが。

 出版社が求める旅の本の内容も、ビンボー旅行の色に染まっていった。グルメ旅の依頼もなければ、世界遺産をめぐるような歴史旅の話もなかった。その後のアジア旅ブームの影響もあったが、訪ねるエリアは圧倒的にアジアになった。アメリカやヨーロッパには縁遠い旅行作家というイメージが定着していった。

 旅はいつもバックパッカーのそれだった。読者の期待も、旅先でトラブルに遭い、苦労する僕の姿であることもびしびしと伝わってくる。ときに、たっぷりの予算で、空港に着くと出迎えの車が待っているような旅に憧れもするが、そんなことを口にしても、出版社からは軽くいなされるばかりだった。そして寂しいことに、そんな旅でなくては、どこか落ち着かない体になっていってしまった。たまに家族と旅行をする。妻はホテルの選択権を決して僕には渡さない。僕の著作を読んでいるからだ。妻が決めたホテルに家族で泊まることになるのだが、どこか居場所がみつからない自分がいる。そもそも部屋が広すぎる……などという小言が浮かんでくる性格に傾いていったきっかけは、やはり『12万円で世界を歩く』だった。

 あるとき、ビンボー旅行のレジェンドと紹介された。うれしくもなかったが、これだけ旅を重ねていれば、そう見られるのも無理はないと思う。その発端は、やはり『12万円で世界を歩く』だった。そして、その原点を辿っていくと、ヤンゴンの空港に行きついてしまうのだ。あのとき、森氏と旅をしなかったら、僕の人生は大きく変わっていたかもしれない。

『12万円で世界を歩く』で旅をしたルートをもう一度、辿ってみることになった。30年の年月が流れていた。『12万円で世界を歩く』では12のルートに挑んでいた。調べると、そのうち3ルートは辿ることが難しくなっていた。中国の長江を船で遡っていくコース、そして東シナ海を船でめぐる旅は、船の運航がなくなっていた。30年の間に、豪華クルージングではなく、ある航路を往復する、いってみれば路線船の需要はなくなってしまったのだろう。インドのスリナガルからラダックをめざした旅も難しくなっていた。スリナガル一帯は、当時からインドとパキスタンの火種だった。領土をめぐる問題だった。30年前は安定していたのだが、最近、その状況が変わってしまっていた。残るのは9ルート。

 まず、1回目に旅したスマトラ島の赤道に再度向かうことになった。

(文/旅行作家・下川裕治)

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