■米国での暮らしと白血病

 米国では友人の助けでニューヨーク郊外に瀟洒な家を購入、再び静かに作曲活動ができる環境を得たが、ヨーロッパほど作品に高い評価は得られなかった。しかし先鋭的な作風は相変わらずで ボストン交響楽団の委嘱作品である「管弦楽のための協奏曲(1943)」は曲想毎にソロパートが変る緊迫した構成である、またライフワークであった中欧の民族音楽研究に対しコロンビア大学から文学博士を授与された。しかし、バルトークは渡米後まもなくして、全身倦怠や発熱食欲不振などを覚えるようになった。だが、周囲からは医師も含めて過労、適応障害とみられていた。

 1942年秋、インフルエンザに罹ったあと高熱が続き、血液内科を受診した。しかし、主治医は彼にはっきり病名を告げることはできなかった。当時としては治癒不能の慢性骨髄性白血病に冒されていたのである。

■分子標的薬の開発で、治療に劇的な効果

 白血球は骨髄の中で常に幹細胞から分化し血中に出ていく。正常な状態では未熟な芽球細胞は骨髄中に留まり、末梢に出ることはない。急性白血病では分化が停止した1種類の未熟な白血病細胞のみ増加する。慢性骨髄性白血病では骨髄、および末梢血液中の様々な系統の分化した顆粒球が異常に増加する。1962年、9番の染色体の一部が22番に転座するという慢性骨髄性白血病に特有の変化が報告され、フィラデルフィア(Ph1)染色体と命名された。後年この変異がBCRとABLという二つのがん遺伝子が接合することにより異常なチロジンキナーゼが誘導されるという病態が明らかになった。

 当時、慢性骨髄性白血病は有効な治療法がなく、予後は極めて不良だったが、現在ではこの異常染色体産物を特異的に抑制する分子標的薬が開発され、劇的な効果を上げている。 しかし、残念なことに半世紀前のバルトークの時代には医療先進国である米国でも有効な治療薬はなかった.1945年春に慢性白血病が急性転化してから、彼の病状は急激に悪化し9月ニューヨーク57番街のアパートメントで死去した。享年64。遺作となったピアノ協奏曲3番(1945)では12音階から再び若い頃の親しみやすい旋律に帰っている。他にも多数の未刊作品のスケッチが残されているがいずれも断片であり、完成するにはバルトークの天才が不可欠であるとことから、これらを聞くことはできない。

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いまでは治る病気に。強い気持ちで