「オフトジャパンは確かに強烈な個性を持つ方が多かった。私はラモスさんやカズさんのようには振る舞えない。自然体でいいと思っていました」と森保監督も述懐していたが、そういう個性派集団をまとめ上げるには、柱谷のように感情を表に出し、強い影響力をもたらせる闘将が必要だったと言える。最終的に彼らは“ドーハの悲劇”を味わい、アジアの壁を超えられなかったが、1992年のアジア制覇が日本代表の成長曲線を一気に高めたのは紛れもない事実だ。
2000年以降はどちらかと言うと、“頭脳派タイプ”がキャプテンに選ばれるようになる。フィリップ・トルシエ監督の“フラット3”の体現者の1人だった森岡隆三、3バックと4バックを臨機応変に使い分けたジーコジャパンの戦術理解の軸だった宮本恒靖、そしてアルベルト・ザッケローニ監督体制の精神的支柱であり、絶対的統率者だった長谷部誠は共通点の多いキャラクターだったのではないだろうか。
3人はいずれもインテリジェンスが高く、選手やメディアの前でしっかりとチームコンセプトや戦い方を説明でき、自分たちに課せられた責務を脳裏に刻みながら戦っていた。とりわけ、トルシエというエキセントリックな男の下でプレーした森岡は苦労の連続だったはずだ。
2000年大会のMVPに輝いた名波浩が最近のテレビ番組で「トルシエはいつもピリピリしていた。当時のキャプテンだった森岡とだけはうまくいっていなかった。森岡は選手の意見をいろいろ吸い上げて、トルシエにぶつけてくれていたので、関係が難しかったんだと思う」と語ったように、トルシエと選手の間でクッションになりながら、守備戦術も確実にこなすというのは相当に難易度が高い。それでも森岡は「トルシエが監督だったから自分は代表に呼ばれた」と感謝の念を口にしていた。アジアカップ制覇という成功体験を共有できたことで、2人の絆はぐっと深まったに違いない。
宮本と長谷部に関しては、それぞれの監督に絶対的信頼を寄せられ、ピッチ上の指揮官として振る舞うことを許されていたと言っていい。宮本の存在価値を示す好例を挙げるとすれば、やはり2004年中国大会準々決勝・ヨルダン戦でのPK戦のピッチエンド変更だろう。この時は中田英寿というジーコが最も信頼し、高く評価していた人間がいなかったのもあるが、中田に匹敵する代表経験を備えていた宮本にチームマネジメントの多くを託していたように映った。