1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。夏の季節にちなんだ「路面電車 夏の足跡」の第四回目をお送りしよう。夏の太陽が輝く都会の街角を一陣の涼風のように走り去った路面電車たち。各地に残した足跡を夏の風情と共に回顧したい。
【三宅坂のSカーブを颯爽と走る都電など、当時の貴重な写真はこちら!】
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いよいよ東京五輪の開幕まで1週間を切った。
思い起こせばこのコラムが2018年にスタートしたきっかけは、「TOKYO 2020」に向けて前回1964年の東京五輪の頃の都内の街並みと当時の都民の「足」であった都電を紹介することで、およそ50年前の東京がどんな光景だったのか、50年でどう変化したのかを知っていただくことがテーマだった。モノクロームの写真が多いとはいえ、読者の皆さんの多くは年齢的に「見たことがない」東京と思われ、おかげさまで様々なお声をいただいている。まずは、その東京五輪にまつわる写真を紹介したい。
青山通りはオリンピック道路が建設中
冒頭の写真の撮影日は1963年9月。皇居にほど近い三宅坂付近だ。前回の東京五輪の1年前に当たり、都心部ではご覧のとおり、「板張り」の道路も珍しくなかった。
日本国民待望の「東京オリンピック」が招致されてから、「東京の街は総工事現場」といわれていた。目覚ましい経済成長と歩調を合わせるように、東海道新幹線や地下鉄、首都高速道路の建設、主要幹線道路の拡幅など、枚挙に暇がないほどの工事が実施され、1964年10月10日のオリンピック開幕をめざした大変革期を迎えていた。
都電路線にも変革の波が押し寄せ、「オリンピック道路」と呼ばれた首都高速道路の建設工事で、喰違見附の名所「都電のトンネル」も消え去った。さらに首都高速4号線三宅坂ジャンクションの建設と赤坂見附交差点の立体化工事の進捗で、青山通りを走る青山線の三宅坂~青山一丁目は廃止され、ここを走る9・10系統の都電は1963年10月1日から迂回運転を強いられた。