古川橋を渡る4系統五反田駅前行きの都電。橋上にある安全地帯では4・5・7系統の到着を待つ乗客で賑わっていた。古川橋~魚籃坂下(撮影/諸河久:1965年10月17日)
古川橋を渡る4系統五反田駅前行きの都電。橋上にある安全地帯では4・5・7系統の到着を待つ乗客で賑わっていた。古川橋~魚籃坂下(撮影/諸河久:1965年10月17日)

 東京は五輪イヤーに突入した。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は山手のジャンクションである古川橋から昭和情緒の漂う魚籃坂下を巡る都電だ。

【激変した現在の古川橋はどうなった!? いまの写真や当時の貴重な別カットはこちら(計5枚)】

*  *  *

 麻布界隈は、このコラムで何度か登場している。

「西麻布」の専用軌道東京タワーがくっきり見えた西麻布交差点付近の「笄坂」(こうがいざか)、そして麻布通りの「一ノ橋」。言い換えれば、いかに麻布周辺が都電王国と謳われていたかがおわかりだろう。

 今回の古川橋もしかり。麻布界隈の住民にとって交通の要所であり、馴染み深い場所だ。

 古川橋交差点は神田小川町のような三角形をした三叉路で、古川の北岸に沿った明治通り・麻布通りに敷設された古川線と古川橋を渡り双方向分岐する伊皿子(いさらご)線の接続地点だった。古川線には8系統(中目黒~築地)と34系統(渋谷駅前~金杉橋)が三角形の底辺を直進する。東方からは4系統(五反田駅前~銀座二丁目)と5系統(目黒駅前~永代橋)が左折、西方からは7系統(四谷三丁目~品川駅前)が右折し、それぞれ南進して伊皿子線に乗入れていた。南方から伊皿子線を北進してきた4・5・7系統は、いずれも右左折を必要とする交通の要衝だった。
 
■古川橋上にあった安全地帯

 写真は古川橋と背後の古川橋交差点を橋の南西方から写した一コマだ。やや脹らんだ古川橋の橋上を走るのは4系統五反田駅前行きの都電だ。撮影から半世紀たった写真を観察すると、魚籃坂下(ぎょらんざかした)からやってくる都電が停まる古川橋の安全地帯は、橋上にあることに気が付いた。

 橋上の停留所で有名だったのは富坂線(大曲~春日町)の大曲停留所で、こちらは神田川に架かる白鳥橋橋上で乗降していた。また、都電の背景には足立屋酒店、田中屋食堂など昭和の家屋が健在で、古川橋の南詰には富士銀行が盛業していた。その古川橋界隈から都電が消えたのは1969年10月だった。

首都高速道路2号線の高架橋が空を覆い、麻布通りの拡幅により古川橋も架け替えられ、往時の面影がなくなった古川橋の近景(撮影/諸河久:2020年1月7日)
首都高速道路2号線の高架橋が空を覆い、麻布通りの拡幅により古川橋も架け替えられ、往時の面影がなくなった古川橋の近景(撮影/諸河久:2020年1月7日)

 現況写真の撮影で久しぶりに古川橋を訪れた。旧景を撮影した地点がわからないほどの大変貌に呆然とした。

 画面の中で大きく空を覆っているのは、古川の河川スペースを利用して建設された首都高速道路2号線の高架道路橋だ。1967年2月に2号線が開通しているから、都電が盛んに走っていた時代に高架道路が竣工していた勘定になる。1970年代に入ると、一の橋方向から高輪方面を結び国道1号線と合流する麻布通り(都道415号線)のバイパスが開通し、画面左方向で軒を連ねていた芝白金志田町(しばしろかねしだまち)の旧い家並は道路用地となった。古川橋も横幅が非常に長い橋に架け替えられたから、橋があることを認識するのが困難なくらいの変貌ぶりだ。

■お目当ては鉄道模型店

 筆者が都電に乗って魚籃坂下を訪れたのは小学時代だった。行く先は、魚籃坂下停留所前にある1947年に創業の「カツミ模型店(現カツミ)」だった。鉄道少年だった筆者は、同店のショーウインドーに飾られたOゲージの精密鉄道模型を飽きることなく、じっくり眺めていた。

著者プロフィールを見る
諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

諸河久の記事一覧はこちら
次のページ
高輪ゲートウェイ駅開業目前で…