AERA 2023年6月12日号より
AERA 2023年6月12日号より

 藤井は勝負手を繰り出していく。対して渡辺が長考で応じた手がよくなかったか、形勢の針は藤井よしへと傾いていった。

 ネット中継を通して多くの観戦者が見守る中、藤井は歩頭に桂を打ち捨て、さらには銀をタダで取られるところに打つ。藤井らしい、鮮やかな決め方だった。渡辺はそこで潔く投了。将棋界の正史を飾るにふさわしい美しい投了図が残され、記念すべき盤寿の第81期名人戦は幕を閉じた。

 スポーツであれば、勝者がガッツポーズをして喜ぶシーンが見られるかもしれない。しかし将棋では、そうした文化はない。現代の将棋界のトップはみな謙虚だ。とりわけ藤井は記録をほとんど意識せず、どれほどの偉業を達成しても、いつも淡々としている。誰もが憧れる名人位に就いても、それは変わらなかった。

 一方で、藤井の奇跡のような歩みを見せられている観戦者の側は、とても平静ではいられない。藤井が盤上でどれほど卓越した技術を示し、どれほど信じられないような実績を積み上げているのか。適切な賛辞が見つからず、もどかしい思いをしている人も多いのではないか。

 棋士としてデビューし、1年1期の順位戦を戦い続け、名人に挑戦するまでには、最低でも5年はかかる。谷川と藤井はともに14歳(中2)で棋士となり、順位戦ではわずかに1期停滞しただけで名人にまで上り詰めた。これもまた表現が難しい、異例のスピード出世記録だ。史上最年少名人記録について、藤井は次のように語っている。

「そのこと自体を意識していたわけではないんですけど。順位戦を一つずつ上がっていかなくてはいけないので。それを一歩ずつ上ってくることができたということに対する嬉しさはあります」

 ただ、藤井がまだ20歳の若さとはいえ、名人となることに違和感を覚える人もほとんどいないだろう。谷川は初タイトルが名人だった。藤井はすでに六冠を持っている。谷川は以前、本誌連載「棋承転結」で次のように語っていた。

「誰が見ても第一人者という人が史上最年少名人の記録を持つほうがふさわしい。そういう気さえしてきているんです」(「AERA」23年3月13日号)

(ライター・松本博文)

AERA 2023年6月12日号より抜粋

著者プロフィールを見る
松本博文

松本博文

フリーの将棋ライター。東京大学将棋部OB。主な著書に『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)など。

松本博文の記事一覧はこちら