その時点で、基地を残したままの復帰というシナリオが描かれていたというわけだ。

 米国は復帰運動に道を開くと同時に、運動が過激化しないよう制御した。その役割を担わされたのが琉球政府最後の主席で初代沖縄県知事の屋良朝苗氏だ。

「屋良氏は革新系ですが、政治的に強いこだわりのない穏健な人でした。そのことを誰よりも分かっていたのが沖縄の米国民政府です」(同)

 68年の主席公選(復帰前の知事選に相当)で屋良氏が勝利する直前、米国民政府は屋良氏と紳士協定を結ぶ。一つは、主席就任後の琉球政府の局長人事で共産主義者を排除すること。もう一つは、復帰運動の母体である労組主体の復帰協(沖縄県祖国復帰協議会)の縛りを受けない、という合意だ。古波藏さんは「復帰運動の志を受け継ぐためには、運動の批判的な総括が必要です」と訴える。

「日米政府が沖縄を裏切って、復帰後も基地を押し付けたという見方は間違ってはいませんが、沖縄側が踏ん張りきれなかった面もあります。島ぐるみ闘争には、他人事が他人事でなくなる瞬間があった。では復帰運動は、なぜそれを引き継げなかったのか。それを考えないと、日米政府の描いたシナリオから抜け出すことはできません」

■政府への経済的な依存

 復帰後も抑圧の象徴といえる米軍基地が維持されたことへの県民の失望は大きかった。にもかかわらず、復帰後は78~90年まで自民党の保守県政が続き、県民の不満が「基地」に向かうことは少なかった。

 その要因の一つに「沖縄振興開発体制」を挙げるのは沖縄戦後史が専門の秋山さんだ。日本復帰の72年から10年ごとに更新されている国の沖縄振興開発計画(2002年以降は「開発」を削除)は50年を経た今も続く。主眼は「本土との格差是正」だ。

「その内実は道路整備を中心とする公共事業です。産業振興の柱を復帰前の農業からインフラ整備へと大きく舵を切ったため、建設業界が影響力を持つ流れに経済界が再編されるとともに、県民が経済的な『豊かさ』を享受できる状況が整いました」

 秋山さんはこう続ける。

「沖縄総合事務局という国の出先機関が主導して公共事業に偏重する『上からの開発』の側面が強くなったことで、政府に対する経済的な依存が政治的な従属につながり、基地問題は非争点化されていきました」

 沖縄振興の影の部分として、格差の問題も指摘されている。

「公共事業は経済効果の裾野が広いのが特徴ですが、製造業が成長していない沖縄では、波及効果は観光や流通業界に限定されます。このため全体的な所得の底上げにはつながらず、一部の業界が潤ういびつな形になりました」(秋山さん)

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