AERA 2022年5月16日号より
AERA 2022年5月16日号より

 苛烈な沖縄戦を経て、沖縄を統治したのは米国だった。米軍統治下で沖縄の人たちが日本復帰を望むようになった背景には何があったのか。沖縄近現代史が専門の古波藏さんは「復帰運動は50年代の島ぐるみ闘争の延長と捉えられがちですが、構造も背景も異なります」と指摘する。

 1950年代の島ぐるみ闘争は、サンフランシスコ講和条約締結後、米軍が沖縄の土地を占拠し続けるため、契約に応じない地主の土地を強制接収する方針を打ち出したのがきっかけ。抵抗する市民に銃剣を突き付け、民家や農地を壊す「銃剣とブルドーザー」による米軍の強権的な土地接収に対する住民の反発は全島規模に広がった。

「これは一義的には地主の問題です。にもかかわらず、『土地闘争』ではなく、『島ぐるみ闘争』に発展したところが肝です」

 と、古波藏さんは言う。

 背景には「基地経済」の限界があった。米国の沖縄政策の基本である「米軍基地の自由使用」を維持するため、住民との摩擦を回避する手立てとして生み出されたのが基地経済だ。沖縄の人々に基地を造らせて経済を回すシステムは、基地建設が一段落つくと失業者があふれてしまう。そんな不安定な雇用形態をカバーしていたのが農業だった。

「50年代を通じて農業従事者は増えています。農業が基地経済だけでは生活できない人たちのセーフティーネットになっていたわけです」(古波藏さん)

■基地残したままの復帰

 そこに舞い込んだのが米軍による土地接収だった。抗議集会にはピーク時、15万~20万人が参加。当時の沖縄の人口約80万人の4人に1人に上る。

「自分の利害だけで動いた人ばかり、とは到底考えられません。沖縄にムラ社会が維持されていたがゆえに、地主以外も巻き込む広がりを見せたのが島ぐるみ闘争の特徴です」(同)

 ではなぜ、「島ぐるみ闘争」は復帰運動と区別しなければいけないのか。

 復帰運動が本格化した60年代は「保革対立」の時代に移行していた。労働者は労働組合に加入し、経営者は経営者団体を組織する。これは保革対立に近い構造で、「島ぐるみ」でまとまる状況ではなかった。さらに、復帰運動が盛り上がる背景には、島ぐるみ闘争をきっかけに米軍が強権から懐柔を基調とする統治へ政策転換を図ったことが挙げられる。ポイントは「沖縄社会の近代化です」と古波藏さんは指摘する。

「米議会外交委員会の委託を受けた米国の調査会社が59年に『おそらく復帰運動は止められない』と報告しています。なぜなら沖縄社会が近代化しているから、というのです。近代化すれば人々は経済的利益を求め、復帰に向かうのは必然だと予見しています。同時に、近代化の延長線上にある復帰運動であれば米国の利益にかなう、とも唱えています。適切なタイミングで日本復帰が実現されれば、日米が軍事協定を結び、沖縄の基地機能を損なわず、施政権のみ日本に返すことは可能と分析していたのです。これって、そのまま現実に起きた復帰なんです」

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