AERA 2022年5月16日号より
AERA 2022年5月16日号より

■武力背景に日本に併合

 東アジアの国際情勢が急速に変化する中、日本は開国し、明治政府が誕生する。明確な国境を定めるのが近代国家間のルールであることを知った明治政府は、日本にも中国(当時は清)にも従属していた「琉球」を正式に日本領土に組み込む政策に着手する。琉球はこれを拒み、様々な抵抗を試みるが、最終的に武力を背景に日本に併合された。この72~79年の過程が「琉球処分」だ。

「琉球にとって米国が重要になるのは琉球処分の時期です。琉球側は『条約締結国が併合されようとしているのだから助ける義理があるでしょう』と米国に働きかけます。米国は『琉球の主張は正しい』と認めつつ、日本と良い関係を築いたほうが米国の利益になる、という論理で黙殺しました」(同)

「琉球処分」という用語は沖縄で議論の的になってきた。戦前までは「沖縄は日本の一部」ととらえ、「王制からの奴隷解放だ」「民族統一事業だった」という論調が主流だった。だが、戦後は沖縄の個性に目が向けられ、「日本による併合を『処分』というのはおかしい」「併合した側の用語を沖縄で使うべきではない」という声が高まる。沖縄では今も、「琉球併合」あるいは「廃琉置県」と呼ぶべきだという意見が根強い。

 一方で沖縄社会には、基地問題などで沖縄が日本政府から不当な扱いを受けるたび、「琉球処分」になぞらえる捉え方も定着している。最近の例だと、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設をめぐって「県外移設」を公約に掲げていた自民党沖縄県連に対し、自民党本部が翻意を迫り、2013年11月に「辺野古容認」で一致した出来事が、「平成の琉球処分」と呼ばれた。会見場で石破茂幹事長(当時)の横でうなだれる沖縄選出の国会議員たちには、まさに「処分」された側の悲哀が漂っていた。前田さんは言う。

「このように『琉球処分』という言葉が、沖縄の歴史の中で繰り返し使われてきた事実に目を向けず、単に用語を変えれば済む、という意見は承服しかねます。その意味で、琉球処分をその後の140年のスパンで捉える必要があると考えています」

■日本人化の先の総動員

 沖縄が日本に組み込まれたことで「日本人」になった沖縄の人々は、日本の戦争に参加することも余儀なくされる。1898年には県民に対して徴兵令が適用され、特に日露戦争(1904~05年)で徴兵された地元出身の戦死者を顕彰する「招魂祭」が、太平洋戦争の前まで沖縄各地で盛大に催された。

「これは現在沖縄各地で行われている慰霊祭とは異なり、亡くなった兵士を地元のヒーローと称えるイベントです。日清・日露戦争の勝利を経て日本のナショナリズムが盛り上がる過程で沖縄もこれに同期し、『総動員』と言われる沖縄戦に突入していきます」(前田さん)

 日米両軍と民間人を合わせた死者が約20万人に上った太平洋戦争末期の沖縄戦。沖縄に配備された日本陸軍第32軍には「本土決戦の時間稼ぎ」という使命が課され、軍内部にはそれを支える「軍官民共生共死」の思想があった。住民は労働力や戦闘員として「根こそぎ動員」されたのが沖縄戦の実情だ。

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