春の宵、買い物客で賑わう若松の中川通商店街を走る若松行き北九州市電。背景の高架橋は1962年に架橋された若松区と戸畑区を結ぶ「若戸大橋」への連絡道路。中川通七丁目~若松(撮影/諸河久:1968年3月15日)
春の宵、買い物客で賑わう若松の中川通商店街を走る若松行き北九州市電。背景の高架橋は1962年に架橋された若松区と戸畑区を結ぶ「若戸大橋」への連絡道路。中川通七丁目~若松(撮影/諸河久:1968年3月15日)

「雑踏の街中を走る北九州市電」のコンセプトで撮影したのが最後のカットだ。ロケ地を若松随一の中川通商店街に面した「丸柏百貨店」付近に定めて、貨物列車の通過を待った。定刻の17時30分頃「そこのけ そこのけ」と、練り歩くような遅い速度で101号機の牽く貨物列車がやって来た。その時のことだ。路面軌道内を貨物列車に対向して走っていたタクシーが、こともあろうに画面右側の反対車線に退避し、貨物列車と並走する自動車群をブロックするように制止してくれた。ある程度自動車に被られることを予期したロケ地選定だったが、ハンドルミスしたタクシーのお陰で、生活感溢れる雑踏のシーンをモノにすることができた。

 ちなみに、画面左端に位置する「丸柏百貨店」は1938年の創業で、石炭積み出し港として栄えた若松と栄枯盛衰を共にしている。市電廃止から4年後の1979年に経営を小倉井筒屋に譲り、丸柏百貨店の暖簾が降ろされた。その後「若松井筒屋」として再出発したが、地域のさらなる衰退にともなって、1995年に百貨店は閉鎖された。その跡地には2007年から「ホテルルートイン北九州若松駅東」が盛業している。

 1960年頃から石油へのエネルギー転換による「炭鉱不況」が始まり、北九州市電の貨物輸送のトップを占めていた筑豊の産炭地からの石炭輸送は衰退していった。1970年代にはモータリゼーションの進捗による港湾・道路改良など、鉄道貨物から自動車貨物への移転も促進された。その結果、港湾地区への貨物輸送量はさらに衰退した。1975年11月、10年以上続く累積赤字に抗せられず、北九州市営による貨物輸送に終止符が打たれた。

■撮影:1968年3月15日

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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