国鉄若松駅に続く電車道の路上には、昼休みで無人の市電(電気機関車)がポツンと佇んでいた。その横をよれよれのダイハツ三輪トラックが走り抜けていった。中川通七丁目(撮影/諸河久:1968年3月15日)
国鉄若松駅に続く電車道の路上には、昼休みで無人の市電(電気機関車)がポツンと佇んでいた。その横をよれよれのダイハツ三輪トラックが走り抜けていった。中川通七丁目(撮影/諸河久:1968年3月15日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回も、街中の電車道をゴトゴト走る貨物列車の話題を続けよう。

【買い物客でごった返す市街地の真ん中を貨物列車が走る貴重な写真はこちら】

*  *  *

 筆者の学生時代には鉄道による貨物輸送が盛んで、工場地帯や港湾地区では至る所に専用線や引込線が敷設され、貨物を満載にした列車が足繁く走りまわっていた。前回の日光編では路面電車が走る路線に貨物列車も走り、異色の情景を演出していた。その記事のコメントやSNSでも今回の北九州市市電について触れている読者の方を散見した。ぜひ今回もお読みいただきたい。

 北九州市若松は、貨物列車のみが闊歩する路面電車の街であった。

「市電」と呼ばれた北九州の貨物軌道線

 冒頭の写真は北九州市交通局軌道線(以下北九州市電)の中川通七丁目で路上待機する北九州市電の電気機関車。写真の101号機は日本鉄道自動車の製造で、戦後の好況期だった1951年に増備されている。凸型車体に板台枠台車の仕様で、全長8.39m、自重20トン、出力149kWのスペック。大きな救助網やサイドミラーなど路面走行用器具を装備していた。

 この作品は35mm判(ISO感度64)「コダック・エクタクロームX」カラーリバーサルフィルムで撮影している。半世紀の経年で色彩がやや劣化したが、機関車に並走する「ダイハツ工業CM8型」三輪トラックの色調も鮮やかに再現されている。

 撮影地の中川通七丁目は浜十二番町支線と連歌浜支線が分岐するジャンクションで、画面左手前が本線の市電北湊方面、画面左奥の複線が浜十二番町支線、画面右奥に連なる単線軌道が国鉄若松駅方面、画面右端には右横に分岐する連歌浜支線も写っている。

 北九州市電の軌道線は、国鉄若松駅とその北側に展開する産業コンビナートである浜埋立地への物資輸送を目的にして1936年に開業している。路面電車と同じ軌道法による運行管理で、若松の目抜き通りである「中川通」などの道路上に併用軌道を敷設していた。当時の若松市(1963年に門司,小倉,戸畑,八幡の4市と合併して北九州市となる)が事業主だったので、市民からは「若松市電」と呼ばれており、「市民が乗れない市電」として稀有な存在だった。

著者プロフィールを見る
諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

諸河久の記事一覧はこちら
次のページ
貨物列車と並走する自動車群