《ワイルドターキー8年。ロック。


 かすかに、樽の香り。
 背中にもっと強烈な匂い。ジャスミン。
 振り返る。目が合った。
 女だ。惚れてしまいそうな泣きぼくろ。
 性欲は、ある。恋は、できない。
 その男、エフ。三十四歳。
 七月四日。まもなく零時。青山の、バー。
 一時間前に、入店した。
 ずっとエフを見張っているはずだ。
 店外と、店内。ここに来るまでに尾けられていないか。誰かを張りつかせていないか。
 店の隅に、暗闇。ひっそりと、居た。
 背の高い、鷲鼻の男。
 流れているジャズ。曲が変わった。
 外に、出た。シンプルに真夜中。
 路地。青山霊園が近い。
 広い車道は遠く、エフの靴音のみ。
 ソフトラバーの靴。
 他に人も影もない。
 鷲鼻が、歩み寄る。
 「またお願いしたい」
 聴いている者にしか響かない低い音域。
 エフ。血の流れが一気に速くなり、コメカミの血管が腫れあがる。
 この場面、もう馴れたはずだが。
 「いつも通りなら」エフの、回答。
 殺るか、断るかは、標的を調査してからだ。
 「了解」鷲鼻が、頷く。
 「報酬は、二百万。十日以内に決めてくれ」
 殺しのエージェント。
 標的の写真三葉。水に溶かすと消えるレポートをエフに渡して、歩き去った。
 エフは地下鉄へ向かう。
 さりげなく、気配を探る。
 追ってくる者はいないか。
 下町。
 近くにスカイツリー。
 アパート、二階。
 帰りついたエフ。レポートを読み込む。
 写真は、まだ見ない。
 エフ。あかりを消す。
 ひとりだ。今は、完璧にひとり。
 二〇七号室の窓を開ける。
 寝静まる人の世。
 また殺すのか。これで何人目だ。
 俺はただの殺し屋か。
 レポートには、標的を人の世から抹殺してかまわない事実と理由が書いてある。
 これは、仕事だ。
 本職は別にあるが、臨時にまとまった金が入ると息がつける。
 また血の流れが速くなる。
 通っている心療内科の医師が言う。
 喜怒哀楽、どこかに置き忘れましたね。
 愛には遠くとも、哀は忘れない。
 窓を閉じた。標的の写真を見よう。
 嫌いな顔であって欲しかった。
      「サイレントキラー VI」》
次のページ
ビア・ステーション