ゆりかもめ新橋駅から出た鹿内雪広は、西銀座へ抜ける道を歩きはじめた。


 市川進が、追う。七月十四日、午後七時五分を二十秒過ぎたところで、腕時計のストップウォッチを始動させた。同じ盤面で、気温を見る。二十九度。
 宵のはじめの雑踏で、刑事や探偵であれば鹿内の足の動きから目を離さずに追ってゆくのだろうが、市川が注意深く追うのは、鹿内の腰、背中、頚椎の動き。人や車とすれ違う時の一瞬の身のこなし、反射神経の程度を推定したい。今夜あたり、二十年前は大学空手部の副主将だったという屈強な鹿内と正面からも斜めからも対峙し結論を下すが、標的、ターゲットと決めれば、多分、きわめて近い距離から銃撃、射殺することになる。その時の鹿内の咄嗟の動きを、市川は既に計測しはじめている。
 首都高速の高架下が、近づく。鹿内が、スマホで話しはじめた。その背後へ、市川が接近する。
「自分からジャーナリストと言うな。しかもフリーで。って、今や俺もそうだけどな」
 笑った鹿内は、ビア・ステーションに入ってゆく。
「いま、店に入った。一時間くらいはいるから、来いよ。俺がはじめる編集プロだからさ、どでかいことさせてやるよ。金も心配するな。きちんと面倒見てやる」
 百七十八センチの身長に見合った太く鋭い声質で滑舌も良いから、この話し方で脅迫を受けつづけた者はよけいに怯むだろうと市川は値踏みして、鹿内の次の次にカウンターでロンググラスの生ビールを受け取った。
 ステーションというわりには狭い店内で、着席はいっぱい。背の高いテーブルがあるスタンディングブースは、比較的空いている。店の外に一基、店内の天井と壁に二基の防犯カメラがあるが、市川は特に気にせず、二杯目の生ビールを飲む鹿内を観察する。
 市川が鹿内を張り込み、尾行したのは、これで三度目だ。最初と二度目は、鹿内が湾岸に借りたばかりのオフィスから、これも買ったばかりのアウディ3Sセダンで移動したために、市川もレンタカーで追跡し、高倍率ズームデジカメの主に動画仕様で、鹿内の行動パターン、交友の範囲を記録した。
 三度目の今日が、直かあたり。市川は、鹿内を見つづけた。
 ようやく気づいた鹿内が、食いついてきた。
「誰?」
 市川はただ見つめる。
「用は?」
 鹿内が、すこし焦れてくる。
 市川はまだ焦らすつもりだったが、尿意が激しくなって、つい、洩らした。尿ではない。
「週刊誌の、記者だったんだろ。こっちも似たようなもんで、今はフリーだ」
「じゃ、名刺もなしか」
「持ってない。長年寝たきりの妻をかかえたメガバンクの頭取。秘書課の女と密会を重ねたはいいが、内部情報を女に洩らしてインサイダー取引の疑惑。出版社をクビになる前につかんだその極秘ネタを、浪人の身になって喰い扶持に使った。ふつう、頭取かメガバンクをつつくだろ」
 いきなり餌をまいて、鹿内の反応を見る。
「まず女秘書をつついた。不倫の証拠写真、インサイダーのテープを全部渡してチャラにするから、有り金全部出しな。女秘書は千五百万の貯金を差し出した。が、証拠の品は今度は頭取をメガバンクに。女秘書は自殺した」
 聞いている鹿内の顔に、変化はない。
「自殺の真相に蓋をするのもあわせて二億を要求したが、結局は一億で手を打った。それでもしぶとい。証拠のコピー、とってたらしいな。今もメガバンク側の担当者を追いまわしてるんだって?今度はいくらたかるつもりだ」
 鹿内は声も立てずに笑い、ロンググラスをテーブルに置くと、銀細工の指輪を右手人差し指から外し、カルチェの時計も外した。
「ゆっくり飲みたくなると、よけいな物を取っ払うクセがある」
 いったん外に出て対応するかと思ったが、鹿内は近くの客を気にせず、そう慌てた素振りもない。
「そんな錆びネタ、どこに売るつもりだ」
「二つだけ、聞く。金だけかっさらわれた女秘書が身を投げて死んだと聞いた時、どう思った? やりすぎたと後悔したか? どこか、ほんの少しでも痛みを覚えたか」
 鹿内とほぼ同じ身長の市川は、三十センチもない距離で、鹿内の顔面、特に眼球の動き、周辺の瞼や皮膚の一瞬のズレを直視する。
 鹿内は、再び声もなく笑い、逆に市川を、あんた大丈夫か、という憐れみの目で見た。鹿内に、人としての価値は一切ない。
 市川は、決めた。鹿内を、殺しの標的とする。これで、十一人目だ。
「あんたは今年四十二歳で、去年、四十五歳だった妻と離婚した。子供は、いない。損得なしで酒の飲める友はいるか」
「友?それよりなんで、ガタガタ震えてるんだ」
 市川は、そのままトイレに飛び込みたかった。そこへの進路を塞ぐように、鹿内が移動して市川を見つめる。
「そっちこそ、歳はなんぼだ。六十は越えてるな」
「七十四」
「おいおい。せっかく小遣い稼ぎにきてるのに、そんなガタガタ震えて、脅えてちゃ駄目だろ。老いぼれんの、早いぞ」
 鹿内が、ガシッと市川の肩をつかんだ。元大学空手部の労いは強烈で、膝から崩れ落ちそうになった。かろうじて立ちつづけたのは、男としての矜持だけではない。膝を落とせば、そのまま洩らしそうだった。
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西銀座四丁目。ビア・バー。