「何かあったとき、すぐ車に駆け込み、避難できる状態にしていました」

 自宅裏山の地盤が緩み、大木が倒れてきた。一時は避難を考えたが、雨が小康状態になったことで家にとどまった。

 こうした周到な準備ができたのは、16年の地震などを体験し、備えの大切さを知ったからだという。今では2、3日分の飲み物と携帯食を常に自宅に用意し、風呂の水はためたままにしている。役場から配布されるハザードマップはいつもチェックし、家族別々に被災した時の連絡方法や避難場所は共有している。

「まだ万全ではないと思うんですけど、さらに少しずつ備えていきたいと思っています」(石橋さん)

 宮城県石巻市で製氷工場を経営する粟野豊さん(67)は、東日本大震災の前から地震に備えていた。

「小学生のころチリ地震津波があって、津波の怖さはなんとなくわかっていました。それに、宮城は震災前から地震が多かった。だから、震災の3年ほど前に企業向けの地震保険に加入していたんです」

 保険料を捻出するため、それまでほとんど支払いを受けていなかった車両保険を解約した。かけた保険金は1億円。被害はそれ以上だったが、満額おりた保険のおかげで、いったん解雇した従業員には退職金と見舞金を支払うことができ、事業再開の元手にもなった。保険以外にも、震災の前年には創立記念日に防災グッズを従業員に配り、地震の怖さを口酸っぱく伝えていた。海べりにあった粟野さんの工場は当然全壊。しかし、社員はすぐに避難して全員が無事だった。企業向けの支援制度もうまく使って震災3カ月後には事業を再開し、今では震災前以上の売り上げを上げている。

災害はいつか起こります。来るものだと思って備えておけば、いざ被災してしまっても何とかなるはずです」(粟野さん)

 2万人近い死者・行方不明者を出した東日本大震災から8年半、日本の災害対策のターニングポイントとされる阪神・淡路大震災からは間もなく四半世紀が経つ。まだ課題は多いが、公的な制度は整いつつある。防災備蓄など社会全体の取り組みも進んできた。あとは個人がいかにリアルに災害を想像し、対策するか。大災害時代を生き抜くカギは、ひとりひとりにある。(編集部・川口穣、野村昌二)

AERA 2019年9月9日号より抜粋

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野村昌二

野村昌二

ニュース週刊誌『AERA』記者。格差、貧困、マイノリティの問題を中心に、ときどきサブカルなども書いています。著書に『ぼくたちクルド人』。大切にしたのは、人が幸せに生きる権利。

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川口穣

川口穣

ノンフィクションライター、AERA記者。著書『防災アプリ特務機関NERV 最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(平凡社)で第21回新潮ドキュメント賞候補。宮城県石巻市の災害公営住宅向け無料情報紙「石巻復興きずな新聞」副編集長も務める。

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