このように香港市民は、以上の自由を享受することで、政治の自由が制限された現実を渋々容認してきたのである。

 久しぶりに歩く香港は、1986年からこの街を知る私には耐えがたいものに映った。もともと人口密度の高い街だが、道ゆく人が尋常でなく多い。中国と結ぶ高速鉄道が開通し、香港にある駅の構内はすでに中国となった。まだ飽き足らずに建ち続ける高層マンション。繁華街に大挙して押し寄せる中国の観光客。そこらじゅうから聞こえてくる、中国の公用語「普通話」。そして驚異的な値上がりを続けるマンション価格。人々の怒りが爆発しないほうが不思議だった。

 中国の富裕層が投資用に香港の不動産を買うことを好むため、本来の価値をはるかに超えた高値がつき、家を持つことは香港の一般市民には手の届かない夢と化している。結婚して家庭を持ったとしても家は買えない。

「最近は、そんな子どもを哀れに思って親が家を子に譲り、自分たちが中国に移り住むことも増えているのよ」と古くからの友人はため息をついた。

 不動産が高騰すれば、これまで香港市民の憩いの場だった酒楼(飲茶を楽しむ場所)や茶餐庁(飲食店)といった、香港独自の文化を醸し出す土着店舗が経営を維持できなくなり、大型資本の飲食店にとって代わられる。どこの駅のショッピングモールに行っても同じ店。香港文化が急速に消滅していた。

 上澄みがかすめとられるだけならまだいい。おこぼれが回ってくることもある。が、さらに問題を複雑にしているのが、1日あたり150人割り当てられた中国からの移民である。もともと香港市民の福利厚生のために建設された公共住宅は、収入の低い「新移民」に割り当てられ、公共病院は人であふれかえり、手術を受けられるまでに1年や2年待つことはザラ。下からは強い火であおられ、上からは重い蓋で閉じられ、ぐつぐつ煮えたぎって、いまにも爆発しそうな鍋、それがいまの香港である。

 香港人の生存圏は確実に狭められている。負荷に耐えきれなくなり、力量のある人は香港から出ていくことを選ぶ。空いた場所には、また中国の人が入る。香港人がいつか絶滅危惧種となるような危機感さえ抱く。

 自力更生の意識が強い彼らは、それでも辛抱した。自分がさらなる努力をすればいいのだ、と言い聞かせながら。

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