レイテ島で日本軍の揚陸拠点だったオルモックに残る、通称コンクリートハウス。独立歩兵第12連隊第3大隊の約250人が立てこもったが、米軍の攻撃で全滅した(撮影/編集部・大平誠)
レイテ島で日本軍の揚陸拠点だったオルモックに残る、通称コンクリートハウス。独立歩兵第12連隊第3大隊の約250人が立てこもったが、米軍の攻撃で全滅した(撮影/編集部・大平誠)
フィリピン・セブ島で、収集した骨を「空援隊」が焼いた後、取り残したとみられる骨の数々。焼いた骨からは、鑑定に資するDNAは抽出できないという(撮影/編集部・大平誠)
フィリピン・セブ島で、収集した骨を「空援隊」が焼いた後、取り残したとみられる骨の数々。焼いた骨からは、鑑定に資するDNAは抽出できないという(撮影/編集部・大平誠)
最後にレイテ島に上陸し、消息が最も謎に包まれている第68旅団の遺族。何度も現地を踏査し、遺骨収集の困難さを知るほど、慰霊巡拝に軸足を移す人も多い(撮影/編集部・大平誠)
最後にレイテ島に上陸し、消息が最も謎に包まれている第68旅団の遺族。何度も現地を踏査し、遺骨収集の困難さを知るほど、慰霊巡拝に軸足を移す人も多い(撮影/編集部・大平誠)

 日本人の遺骨は一体もない──。前代未聞の不祥事に揺れる厚労省の海外戦没者の遺骨収集事業。昨年8月に公開された鑑定結果からは、同省が隠蔽を試みた事実が浮かびあがる。遺骨収集は何のために行うのか。9年前、遺骨混入疑惑を最初に報じた記者が取材した。

【写真】収集した骨を「空援隊」が焼いた後、取り残したとみられる骨の数々

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 約310万人の戦没者を出した第2次世界大戦終結からまもなく74年。海外の戦没者約240万人のうち、これまで収容された遺骨の概数は128万柱に過ぎず、半数近くがいまだ異国の地に眠っている。

 1952年から開始された海外戦没者の遺骨収集事業は、南方から旧ソ連、モンゴルなどにも拡大、現在も厚生労働省所管で継続している。しかし、最激戦地のフィリピンでの事業は2010年から約8年も中断した。収集された遺骨の大半がフィリピン人のものだったのではないか、という疑惑が報じられたからだ。遺骨収集とはなんのために行うのか、いたずらに数を増やせば達成なのか。戦争がなかった平成という元号をまたぎ、昭和への記憶が薄れる令和という時代の初頭に、この問題を疑惑として最初に調査報道した記者として、改めて考え直したい。

 まず、遺骨混入について振り返る。

 約51万8千人が犠牲になったフィリピンから収容した遺骨の概数は、今年3月末現在で14万8530柱。政府派遣団による収集は74年度の1万6826柱をピークに下がり続け、平成の半ばには年に数十柱というレベルまで低迷した。ところが、NPO法人「空援隊」が政府派遣団に加わった07年度から収容数が急回復し、同隊が単独で「未送還遺骨情報収集事業」(フィリピン分)を受注した09年度は、7740柱と飛躍的に増大した。

 従来は遺族会など協力団体から得た情報をもとに、厚労省が自ら集骨に出向いていたが、集骨自体を空援隊に丸投げ。さらに、遺骨鑑定からフィリピン大学の考古学教授を外し、住民らの宣誓供述書に基づいて集めた遺骨を博物館の学芸員が鑑定したものを、厚労省が追認する形にしたことが、収集数のV字回復につながったようだ。

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