自身のレポートが厚労省のホームページ上で公開されていた事実も、斎藤教授には伝えられていなかった。

 鑑定した遺骨は真剣に捜された結果、もたらされたものなのか。斎藤教授に感想を尋ねると、こう答えてくれた。

「全然そうは思えないですよ。私たちは慎重を期したので、『一応否定はできませんよ』と数%は日本人である可能性を残しました。しかし、状況から判断すると、フィリピン人の骨を日本人の骨だと言われて、全部ガセをつかまされた可能性が大きいんじゃないですか。あくまで私の推定ですけど」

 レイテ島の戦いなど、玉砕続きだった最激戦地フィリピンにおける遺骨収集とはなんなのか。遺族はどう感じているのか。30年以上にわたってフィリピンを足しげく訪れ、遺骨収集や慰霊巡拝を行ってきた亀井亘さん(76)に聞いた。亀井さんの父は広島県出身のベテラン通信兵で、3度目の従軍中の1945年6月27日、ルソン島北部山岳地帯のボントックで13人の仲間と共に戦死した。満34歳の曹長で、通信暗号班長を務めていたという。

「父の場合は戦死の状況を見ていた人も多く、記録もかなり正確だったとみられます。しかし、現地はもともと戦闘的民族の居住地域で、討ち取った敵兵の首を自分と一緒に埋葬させるような風習もあった。何年もかけて人脈を作って、現地で交渉も重ねましたが、結局父ら部隊の遺骨の確たる情報には行き当たりませんでした。レイテ島など帰還兵もまれな地域では、戦死した時期や場所も不明確なケースがほとんどで、遺骨捜しはなおさら困難です」

 一連の経緯について、厚労省の現在の担当部署である社会・援護局事業課事業推進室に、再三面談取材を申し入れたが応じてもらえず、文書での質問と回答になった。この中で、空援隊との関係については、「今後も含め、お尋ねの団体と情報交換することや遺骨収集事業を委託することは行いません」と回答があったが、反省や総括にあたるコメントは見当たらなかった。

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