哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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東日本大震災から8年が経った。被災地の復興は進まず、5万人を超える被災者たちがまだ故郷への帰還を果たせずにいる。自然災害からなら人間は立ち直ることができる。東北がこれほど深く傷ついているのは福島の原発事故の処理が進まないせいである。
廃炉までどれほどの期間、どれほどの予算がかかるのか、まだわからない。総費用は2016年に経済産業省が試算したときは22兆円とされたが、81兆円という数字が最近示された。いったいどこまで増え続けるのか誰も確実なことを知らない。廃炉の終了は一応40年後とされているけれど、その時に廃炉作業が完了していなかったとしても、その責任を問う相手はその時にはどこにもいない。
どうしてこんなことになったのか。それは「こんなことが」起きた場合について想像することに、政府も電力会社も知的リソースを投じなかったからである。彼らは「最悪の場合」を想定して、それに備えるという想像力の使い方を知らない。これは「知らない」と断言してよい。「最悪の事態」を想定することを忌避するのはわが国の風土病のようなものだからである。
本邦には「最悪の事態を想定すると、最悪の事態が到来する(だから最悪の事態についてはできるだけ考えない方がいい)」という独特な信憑が存在する。これはどのようなものであれ日本の組織に属したことのある人なら身に覚えがあると思う。旧日本軍ではそれは「敗北主義」と呼ばれた。「作戦が失敗した場合に被害を最小化するための手立て」を講じようとすると「お前のようなやつがいるから、作戦が失敗するのだ。敗北主義者が敗北を呼び込むのだ」と一喝される。逆に、すべての作戦がことごとく成功すると「皇軍大勝利」という「最良の事態」のシナリオを起案する参謀が重用された。その結果、日本は前代未聞の敗北を喫したのである。
福島の原発事故は「2度目の敗戦」だと私は思っている。災厄を防げなかった人々の心理と論理が同一だからである。これを改めない限り、日本人は遠からず「3度目の敗戦」を迎えることになるだろう。そこから回復することが21世紀の日本人にできるだろうか。