奥克彦記念杯を始めたレジ・クラークさん。オックスフォード大卒業後、神戸製鋼でプレー。現在は大手ラグビー用具メーカーのCEO(撮影/Shu Tomioka)
奥克彦記念杯を始めたレジ・クラークさん。オックスフォード大卒業後、神戸製鋼でプレー。現在は大手ラグビー用具メーカーのCEO(撮影/Shu Tomioka)

 日本でのラグビーW杯開催を、早くから夢見て尽力していた人物がいる。奥克彦さん。

 イラク戦争後の復興支援のために、英国大使館から派遣され、現地で奔走していたこの外交官は、2003年11月29日、武装勢力の銃撃を突然受けて命を落とした。45歳だった。

 奥さんは早稲田大学ラグビー部に2年間所属。卒業後は外務省に入省、82年から84年まで在外研修でオックスフォード大学に留学し、同大ラグビー部で活躍した。1軍選手として公式戦に出場した初の日本人でもある。

 外交官として世界を飛び回りながらも、各国政府関係者やラグビー関係者に、日本でW杯を開催することによって、ラグビーをアジア圏に広めると同時に、国際関係の懸け橋にしようと精力的に働きかけていた。のちに日本ラグビーフットボール協会の会長(現・名誉会長)として招致に成功した森喜朗氏も、功労者として彼の名を挙げている。

 その死の翌々年から毎年、命日に近い週末に、ロンドン郊外で「奥克彦記念杯」が開かれるようになって14回を迎えた。奥さんも所属した現地在住の日本人ラグビーチーム「ロンドンジャパニーズ」と、オックスフォード大のOBで構成される「キュー・オケイジョナルズ」が、彼を偲んで試合を行うのだ。

「併せて早稲田対オックスフォードの試合をすることもあります。どちらも奥の母校ですからね」と語るのは、記念杯を始めたレジ・クラークさん(60)。

「シンプルに、奥との思い出にすべてを捧げ、その人生を称えるために始めたんです。彼はきっと私たちに、悲しむのではなく、楽しんでほしいと思うに違いないと思ってね。ラグビーをプレーして、笑顔になる、毎年そういう気持ちで集まっています。実のところ、彼の死はつらすぎて、祝えるようになったのは、ごく最近だけれどね」

 クラークさんは、80年から3年間、神戸製鋼で10番のスタンドオフとしてプレーしていた頃に、奥さんと知り合った。

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