「あの人は、お金が出ない人とはお付き合いしません。私は、もう関わりたくありません」

 2年前の都知事就任時、そう落胆していたZさんは今回、舛添氏が政治資金で「龍宮城スパホテル三日月」に2年連続で正月家族旅行に興じていた週刊文春報道を受けた記者会見のテレビ中継を見て、筆者にこうメールしてきた。

「テレビみました。すっきりしました。私は、がんの末期であと少ししか生きませんがよくぞやってくれました」

 これまで数々の疑惑を報じられながら、運良く切り抜けてきたが、今回ばかりは外堀を埋められ浮かぶ瀬が見つかりそうもない。

 舛添氏はかつて、中学時代に死んだ父のルーツを求め、『花と龍』『麦と兵隊』などで知られる芥川賞作家、火野葦平の旧居「河伯洞」(北九州市若松区)を訪れたことがある。00年の初夏。手には1930年に若松市議選を戦ったという父の選挙ビラがあった。「舛添弥次郎」の右横には片仮名で、左横にはハングルでルビが振ってある。その謎を解くために、当時の選挙戦の様子を『花と龍』などで描いた葦平に、縁を求めてやってきたのだ。

●火野葦平の掛け軸を「購入」

 葦平の三男で河伯洞管理人の玉井史太郎さん(79)が振り返る。

「そのハングルの選挙ビラを持って、臨月でおなかの大きな奥さんと一緒に来ました。昭和16年に出版されて絶版になっている葦平の『美しき地図』の中で、選挙協力を求められていた主人公の朝鮮人の友人が『入れられなくなりました。こらへて下さい。今度、朝鮮のひと、候補に出る。仕方ありません』との記述を見つけ、喜んでいました」

 舛添氏は「現代」01年1月号でこのエピソードを「参政権が朝鮮人にあった『戦前』を考える 立候補した父親とハングルの選挙ビラ」で書き残している。

 そんな縁もあり、舛添氏はその後も2度ほど河伯洞を訪れ、玉井さんも毎月「河伯洞だより」を欠かさず舛添氏に郵送してきた。10年12月に発刊した記念誌「あしへい13」には舛添氏がこんな寄稿をしている。

<先日、懇意にしている東京本郷の古本屋が葦平の掛け軸を持ってきた>

 河童の絵をあしらった葦平の軸を額装し、背景にして舛添氏が一緒に写真に収まっている。玉井さんは嘆息した。

「掛け軸も政治資金で購入されてたりしたら目も当てられません。みみっちいと言うか、あれがあの人の本質やったんかな。厚労大臣のときはSP5人に若松警察署長まで連れて嬉しそうに来てましたけどね。河伯洞だよりも今月から送るのやめます」(編集部・大平誠、作田裕史、宮下直之)
AERA 2016年6月6日号