永江:アサヒ芸能をやっていると特にそれを感じますね。ヤクザとおっぱいの間で、なんでこんなむずかしい本を紹介するのかと思うんだけど、編集部はぜひ取り上げてほしいという。

斎藤:その本を取り上げていることが編集部の矜持というか、良心になっているんでしょうね。書評欄をなくすということは……。

永江:魂を捨てるのと同じなんです。

斎藤:何のために雑誌をやっているのかということになる。ファッション誌にも必ず本の紹介欄がありますからね。

永江:これからの書評ですが、版元や著者の側からすると、書評は効かないといいながら依然として重視しているし、くまざわ書店だと毎週、新聞書評に載った本が店頭にある。書店が本を発注するときの大きな目安に書評がなっている。

 書店界の大きな変化として、トーハン、日販という取次がなかなか機能しなくなってきている。それは雑誌が低迷しているからですが、代わりに直仕入れや、取次から自動的に送られる委託配本を受けないで、自分たちで本を注文する書店が増えている。その書店が発注するときの根拠といいますか、セラーズ・ガイドとしての書評があっていい。

斎藤:いままでのビジネスモデルとは違うかたちのものが萌芽しつつあって、それが拡大していく可能性があると。すると、本と読者と書店の関係性も変わっていきますね。

永江:検索するとヒットする時代の書評のあり方も問われますね。デジタル時代になって、本が再発見しやすくなっているとも言える。

斎藤:私は書評は、読んだ本の書評を読むのが一番面白いと思っているんです。復習のための書評。昔はよく紙の書評を切り抜いて本の見返しに貼ってました。読んだ後に、その書評を読むと、意外とトンチンカンだったりね。書評本が面白いのはそこなんです。

永江:週刊朝日でも村上春樹の『ノルウェイの森』の書評をしていますね。87年で文芸評論家の秋山駿さんが「一九八○年代の恋愛および恋愛小説について書かれた『エッセイ』のような小説」と書いています。当時は、そういうふうに感じていたんだという感慨もある。

斎藤:そういうタイムラグも書評の面白さのひとつですね。今は青空文庫で戦前の本を読むことができますし、古い本の電子化も進んでいますから、ネットに旧著の書評を上げることもできる。1951年から72年間続いてきた週刊図書館は新刊中心でしたが、これからはもう少し多様な関係があっていいと思いますね。書評を読む人、書評を書く人なんていうカテゴライズもそのうち消えていくのかもしれません。

(構成/小柳学)

週刊朝日  2023年6月9日号