二人三脚で新日本プロレスを支えた当時の妻・女優の倍賞美津子さん(左)と(82年)
二人三脚で新日本プロレスを支えた当時の妻・女優の倍賞美津子さん(左)と(82年)

 これに対して同じく72年の3月に旗揚げ戦を行った新日本プロレスは、強豪外国人レスラーの招へいルートを全日本に押さえられ、テレビの定期放映もつかず、旗揚げしてしばらくは苦戦を強いられた。

 その中で猪木さんは力道山時代にはご法度とされた日本人対決、さらにはアリ戦をはじめとする異種格闘技戦を積極的に開催。戦いの要素を前面に押し出した「ストロング・スタイル」で、ショー的要素が強いとされた全日本との差別化を図った。この巧みなマーケティング戦略によって新日本は80年代前半、爆発的な人気を獲得する。

  元「週刊プロレス」記者のスポーツライター・市瀬英俊さんは、こう語る。

「馬場さんの基本的な考えが『プロレスはプロレスである』というものだったのに対して、猪木さんはそれまでの常識を打破することで、プロレスを世間に認めさせようとした。『キング・オブ・スポーツ』であるべきだとして、さまざまなチャレンジもした。そうした開拓者精神は後に続くプロレスラーだけでなく、多くの若者にも大きな影響を与えたと思います」

 先の柳澤さんは「異種格闘技戦というものはボクシングとプロレスが戦うわけで、プロレスというものは格闘技であると猪木さんは言うわけです。現実とは違うわけですけど。結末の決まったエンターテインメントであるプロレスを格闘技と言い張って、その幻想を多くの人が信じた。それは、アントニオ猪木さんのプロレスラーとしての魅力がとんでもないものだったからです」と話す。

 ルール問題などで紛糾し、一時は実現が危ぶまれたアリ戦。全世界に中継されたものの、がんじがらめのルールで動きを制限された猪木さんはアリのパンチを警戒し、リングに寝そべった状態でキックを繰り出す単調な展開に終始。試合は15ラウンド引き分けとなり、当時のメディアに「世紀の凡戦」と酷評された。

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アリ戦で大借金、「逆境」バネに築いた黄金期