川端康成
川端康成

 震災の翌日、一家で避難する際、芥川は夏目漱石からもらった一軸の書を風呂敷に包んで持ち出しただけだった。好奇心旺盛な芥川はこの後、吉原に被害状況を見学に出かけている。同行した川端康成は「芥川龍之介氏と吉原」でこう書いた。

<芥川氏と今(東光)君と私とは、多分芥川氏が言い出されたように思うが、吉原の池へ死骸を見に行った。(中略)荒れ果てた焼跡、電線の焼け落ちた道路、亡命者のように汚く疲れた罹災者の群(中略)吉原遊郭の池は見た者だけが信じる恐ろしい『地獄絵』であった。幾十幾百の男女を泥釜で煮殺したと思えばいい。赤い布が泥水にまみれ、岸に乱れ着いているのは、遊女達の死骸が多いからであった>

 そう書いた川端自身は大した被害を受けていない。千駄木の下宿の2階で被災し、瓦が落ちる音が激しくなったので、階下に降りたと書き残しているだけだ。

泉鏡花
泉鏡花

 千代田区六番町で被災した泉鏡花はその体験をルポ作品「露宿」に残している。火事を避けるため裸足で家を飛び出し、黒煙と轟音の中で避難民が集まる四谷見附の公園にたどり着き、野宿をした。水は止まり、マッチもろうそくもないなか一睡もせずに3日の午前3時を迎えた。

<四谷見附そと、新公園の内外、幾千萬の群集は、皆苦き睡眠に落ちた。……残らず眠ったと言っても可い。荷と荷を合はせ、ござ、筵(むしろ)を鄰して、外濠を隔てた空の凄じい炎の影に、目の及ぶあたりの人々は、老も若きも(中略)萎えたやうに皆倒れて居た。

 ──言ふまでの事ではあるまい。昨日……大正十二年九月一日午前十一時五十八分に起こった大地震このかた、誰も一睡もしたものはないのであるから>

 ばい菌を恐れ、アルコール綿の入った消毒器を持ち歩いていた鏡花は、どんな思いでこの夜を迎えていただろう。

 そんな鏡花の近くに住んでいた直木三十五はまったく別の反応を見せていた。市ケ谷駅前で冬物の帽子を二つかぶり、ステッキを振り回しながら火の手が上がる麹町方向を見つめている姿を広津和郎が目撃している。

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