昔話をしながら、何度も盟友である「(岸谷)五朗ちゃん」の名前を口にした (c)木寺紀雄
昔話をしながら、何度も盟友である「(岸谷)五朗ちゃん」の名前を口にした (c)木寺紀雄
寺脇康文(提供)
寺脇康文(提供)

「役者ならできるかな」と役者の道を歩み始めた寺脇康文さん。しかし、三宅裕司さん主宰の劇団「スーパー・エキセントリック・シアター」の公演で衝撃を受け、さらにそこでは岸谷五朗さんと出会うことに。寺脇さんが、若手時代を振り返る。

前編/漫画家志望だった寺脇康文 運命を変えた“何枚かの1万円札”】より続く

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 盟友との出会いはあったが、役者の才能を開花させるのはまだ先になる。当時、若手がステージに立つには、踊りか、バク転か、アクションか、そのどれかに秀でていないと無理だった。22歳の寺脇さんは、そのとき初めてマット運動とダンス、アクション、タップ、バレエのレッスンを受けて、バク転をマスター。デビューは、新宿コマ劇場だった。

「大勢が揉み合いになるアクションシーンで、バク転して捌(は)けるだけの役。でも、『剣はペンより三銃士』という舞台で、兵士Hの役をもらって、たった一言ですがセリフがあったんです! 仲間の兵士が倒れている横に木の棒が落ちていて、普通ならこの棒で殴られたと考えるのが、兵士Hは、『そうか、この棒につまずいて転んだんだ』と勘違いする。それだけのセリフですが、立ち稽古の後、三宅さんが僕にダメ出しをした。『(三宅さんの口調をまねて)え~寺脇、熱気がない』ってたった一言(苦笑)」

 次の日も、その次の日も。ずっと「熱気がない」と言われ続けて、気づいたら1週間が経っていた。悩みに悩んだ寺脇さんは、近所の電車の高架下で、とにかく大きな声を出そうと思い、自主練を繰り返した。するとある日「熱気がない」とは言われなくなった。

「ダメ出しをされていたときは、自分ではなぜダメなのかわからなかったけど、下手ってそういうことなんですよ。自分ではできていると思っているのに、できてない。4本目ぐらいに主役をもらった頃になると、さすがに、『努力しないと芝居はうまくならないんだ』と悟りました」

 稽古後のアルバイトを辞められたのは28歳のときだった。それまでは劇団からいくばくかのギャラが出ていたが、晴れてアミューズ所属となった頃に、憧れの水谷豊さん主演のドラマ「刑事貴族」のレギュラーが決まった。

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